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たった1本のサーブを打ちたくてやっていたことが世界を目指すきっかけ

「コウ。4年生では試合に出られるよう頑張ってね」

私が2年生の時に卒業した
大好きだった先輩の言葉がずっと心の中にあった

けど、

2年生になっても
3年生になっても
4年生になっても
私はずっと雑用だった。

入部してから一度も試合に出たことがなかった。

学年が上がって、先輩が卒業しても
そこには新たに優秀な後輩が入る。

ある程度同じ控えの後輩がいても
私と全く同じ立場の後輩はいない。

みんな何かしらの形でチャンスを与えられる

Aチームの対抗馬の
Bチームとして代わる代わるプレーをアピールできる

私はBチームにも入ったことがない。
ずっと審判だった。


学年が上がった頃には
主審を任されることも増えた。

この主審という役割は責任重大である。

練習ゲーム中は、試合同様に
どんなに普段は温厚な選手でもみんな真剣だ。

それこそ、チームメイト同士で
言い争う場面を何度も目にしていた。

時に、Aチームのメンバーが頼りない時は
Bチームの子たちがしっかりしろと叱咤する。

Aチームのレギュラーたちは、
そんなメンバーたちの想いを背負って
責任持って試合に出場して活躍する。

そして、プレーヤー同士に限った話ではなく
裏方に対しても同様に真剣だ。

A. Bチーム共に絶対に勝ちたいから、
私が少しでも判定ミスをしたら、
容赦ないクレームが飛び交う。

そんなクレームにも動じず、
自分の判定に自信があった時には
断固として判定を押し通すようになったあたりから
私のメンタルは相当強くなったかもしれない(笑)


毎年、審判講習会などの常連になり
お陰様でバレー関係の資格はやたら履歴書に書けた

一時期、本気で
バレーボールの運営関係の職を目指し
PCを使った試合分析を行う
アナリストと呼ばれる役割の勉強もしたくらいだ。
(※それが後々コーチ業に役に立つことになる)

話を戻そう。

試合前のシーズンは特に、基礎練習はすぐに終わり
ずっとゲームを繰り返す為、

私の練習時間なんてほとんど無かった。

ギュッと縮めたら、
私がバレーをしていた時間は
1年に満たない程だったんじゃないかとすら思う

けど、その状況が当たり前で
自分はこの部にいさせてもらえるだけで
ありがたいと感じていた。

何故なら、
審判業を通してみんなのプレーを見れば見るほど
次元の違いを強く思い知らされたから。

彼女たちが少しでも気持ち良くプレーできるよう
裏方のサポートで精一杯チームの役に立つことが
唯一 私にできることで
それが幸せなんだと
ずっと自分に言い聞かせてきた

何より私も、チームの一員として勝ちたかったから
責任持って自分の役割を全うしようとした


試合に出る同期や後輩が悩んでいたら
少しでも何か力になりたくて、
ご飯に誘ったり温泉に行ったりして
ずっとバレーについて語り合っていた。

そういう時間は私自身とても楽しかった

けど、せめて

一度でいいからコートに立ちたかった。
ピンチサーバーで。


監督から何度も練習から外されても、

遠回しにも直接的にも
「お前はマネージャーだろ」と言われても

プレーヤーという立場を捨てて、
サポートに徹することはしなかった
(※多分、してほしかった選手もいたと思う)

どうしても、そこだけは譲れなかった

そして、練習の合間を縫ってはずっと
筋トレに専念していた。

《今から思うと、

プレー技術の未熟さを
何とかフィジカルでカバーしようとしてたが

本当にプレーの上達を望むのであれば、
技術は技術練習でしか鍛えられないんだから
ボールを扱った自主練をするべきだった(笑)》

けど、最上級生になる頃には
筋トレの成果はかなり出ていた。

ウェイトトレーニングのMAX数値は
既に部内でNo. 1


練習後に行う全体トレーニングの時間が最も
生き生きしていた気がする。

パワーも相当ついたので、
スパイクやサーブの単純な威力は上がった

専属のトレーナーさんたちからも
私のフィジカルの向上は評価されていた

自主的にトレーニングに励む姿勢は
部のみんなからも認めてもらっていた

どんなに目の前でプレーの自主練をしても
どんなに上達したことをアピールしても
プレーに関しては目もくれなかった監督ですら、

トレーニングの時間だけは
私のことを名指しで褒めてくれた


だから、尚更気合が入った

もしかしたら…
もしかしたら…!

4年生の引退試合くらいは
全日本インカレの予選くらいは
私にピンチサーバーをやらせてくれるかもしれない

トレーニングでこれだけ褒めてくれるんだから
監督も流石に情がわいて、
試合に1回くらい出してくれるかもしれない

そんな淡い期待を抱きながら、
引退する前の最後の練習まで希望を持ち続けて
私は決してプレーを諦めなかった

どうしても、どうしても
ベンチ入りメンバーとしてコートに立って
1本だけでもいいからサーブが打ちたかった

そして、迎えた全日本インカレ選手権

vs 鹿屋体育大学

大学日本一を争う決勝戦まで青学は勝ち残り、
大接戦の果てに、フルセットで準優勝

そして私は、

4年生でただ1人、ユニフォームが貰えず
最後までベンチスタッフとしての責務を果たした

結局、私は一度もコートに立てずに引退した

けど、コートのすぐそばで
大好きな仲間たちを見守ることができた

両者が一歩も譲らない緊迫した試合の中、
1点取るごとに本気で喜び、本気で涙する

チーム全体の、確かな一体感を味わうことができた

こんなにも強い仲間たちに恵まれたおかげで
テレビ放映までされたインカレ決勝戦という
大舞台を経験できた

欲しくて欲しくて仕方なかった
心から勝ちたい仲間たちと出会い
一生の宝物になる思い出を沢山作れた

プレーもみんなには到底敵わなかったけど
4年間かけて随分上達できた

だから…もういいんだ…

間違いなく私は、4年間幸せだった

高校時代に狂おしい程 欲したものは
全て手に入れて終えることができたんだから。


そうして引退後は、

体育の教師を目指したいという思いから、
大学卒業後の進路を
日本体育大学の大学院進学に決め(※)
残り少ない学生生活を謳歌していた。

(※青学では、体育教諭の免許は取れないので、小学校教諭の免許のみ取得)

けど、何だか心が満たされず、
相変わらず日課になっていた
ジムでのトレーニングは続けていた。

そんなある日のこと、
よくトレーニングを見てくれていた
トレーナーさんから電話が入り、呼び出される

そして言われたのが、

「お前、他の競技ならオリンピック目指せるんじゃないか?」

大学卒業寸前に言われた
運命を変えるきっかけになる一言

単純な私は、ここから本当に

院の入学と同時に
セブンスラグビーのクラブチームに入り、
アスリートの道を志す


それはまた次回のお話で(^^)

#スポーツ #人生 #アスリート #部活 #挑戦している君へ

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