『週末、二人の』-Short Story-
冬の寒さを感じる遅い朝に、弱々しい日を背に急坂を登っていく。
辿り着いた「宇山」と表札の上がったこの家は、いわゆる山の手のお屋敷だ。
品のある意匠の鉄門を開いて庭先を渡り、インターホンを押す。程なくして癖っ毛の青年が顔を覗かせた。
「――やぁ、カナちゃんか。いらっしゃい」
「……おはようございます、日向(ひなた)くん」
小さく頭を下げる。そんな私に朗らかに声を掛けて、扉を大きく開いた。
* * *
二階の日当たりの良い角部屋。窓際のベッドには一人の老女が身を起こして外を眺めていた。
「おばあちゃん」
「……奏。よく来たねぇ」
柔らかい声音で私を迎えたのは私の祖母――宇山しの、である。
「それじゃ、今日もお願いするね」
――彼女は闊達な人だが、それでも少しずつ寄る年波には勝てなくなっていた。
一年前に祖父が亡くなってからどうにも気落ちし、半年ほど前に一度入院してからは自宅でもベッドの上で過ごすことが多くなったのだ。同時に視力も落ちて習慣だった小説を読むことすら今は億劫になってしまったようである。
だからこそ、私が居る。私が来る。
「うん、今日は続き物のファンタジーを持ってきたよ。一押し! でね、元は少女小説として出たんだけど色々出版元を変えながら最近十八年ぶりに新刊が出てね――あぁ、でも『赤毛のアン』みたいな感じではないなぁ」
いたずらっぽく前口上を謳えば、我がことのように「それは嬉しいねぇ」と目を細めて微笑んだ。
その様子が可愛らしくて、そして優しくて。思わず顔を綻ばせてページを開く。
そう、私がしているのは小説の朗読、だった。
* * *
「あ、カナちゃん。終わったんだ」
「うん。楽しんでもらえたよ。……たぶん」
階下に降りると、二年ほど前から祖母の同居人をしている従兄弟に尋ねられた。自信なく答えれば、「きっと大丈夫だよ」と励まされる。
それに小さく首肯しながら向かいに座ると、入れ替わりに立ち上がって「何を飲みたい?」と訊かれた。思案している間に彼は冷蔵庫から何やら取り出している。
「じゃあ紅茶、甘くないやつ。喉疲れちゃった」
「はいはい。――っん、とりあえず先にこれどうぞ」
そう言って冷たい麦茶の入った小さなグラスを渡される。受け取ってお礼を言うと、「どういたしまして」と軽く芝居がかった返事をされた。それに小突く素振りを見せれば、猫のように目を細めてキッチンの奥の方に逃げていく。
麦茶を飲みつつ少し目を休め、まもなく正面に気配が近づいたのを感じて瞼を上げた。
「どうぞ、お嬢様」
「お嬢様って、ずいぶん引っ張るね? 日向くん」
だって、このセットじゃねぇ……と、含むように笑いながら白の陶器のソーサーとカップを並べる彼。
そのまま流れるようにポットから煌めく赤い液体が注がれる。湯気と一緒にくゆる薫りはなんとも芳しく、甘やかだ。
「それで、今日は何を読んだの?」
私の物言いをさらりと流して聞いてくる彼がちょっとだけ腹立たしい。こちらを見遣る顔を見れば雲散霧消してしまうようなものであるけど。
「ほら最近新刊の出た――」
「あぁ、それね。……あれを選ぶカナちゃんも凄いし、でもそれを楽しめそうなばあちゃんはもっと凄いな」
「む、悪かった?」
手にとった本を下げて唇を尖らせれば、「そうじゃなくて」と微笑みながら返される。
「うちのばあちゃんが凄いって話。良いセレクトだと思うよ」
「……なら、いいけど」
やっぱり、この笑顔には弱い。「ずるいなぁ」と独りごちてカップを傾ければ、濃い薫りが口いっぱいに広がった。その色づいてすらいるように思える香気を、そっと吐き出す。
「ん、美味しい」
「そう? 良かったー……」
ふぅと息をつく日向くん。その様子が妙に可笑しくて笑いを零せば、「何?」と怪訝そうに尋ねられた。
「ううん、なんでもない。強いて言うならなんか私達がそっくりだなーてお話」
「なにそれ」
リクエスト通りのものを持ってきて、でもそれが合うかは自信がないってことだ。
――とは口に出さず、そっと件の本を手にとって撫でる。
この本だっておばあちゃんに「奏が好きなお話を」って言われたから持ってきたのだ。
実際、楽しんでもらえただろう。祖母は終始私の思った通りに時々の反応をしてくれたし、読み終わってから「次が待ち遠しいねぇ」なんてそれこそ少女じみた様子で漏らしたのだから。
それきり、なんとなく音は絶えて。紅茶の薫りと、奥の古時計が刻む秒針の音だけでリビングは満たされた。
鞄から新たな一冊を取り出し、座り直して読み始める。ちらと一瞥すれば、彼も向かい側に座って新しい一杯と共に続きを読んでいるようだった。
……小一時間ほどだったろうか。ふと顔を上げると、時計が正午を知らせる重低音を鳴らした。ぱさり、と向かい側から本を閉じる軽い音も聞こえる。
「――良い時間だし、お昼にしよっか」
* * *
お昼は漁師風のスープトマトパスタだった。「手抜きだけどね」と彼は苦笑するけど、普通市販のパスタソースに手を入れたら十分だと思う。「一家に一人日向くん」としょうもない言葉が浮かんだのをさっさと振り払った。
「うーん、お腹いっぱい……」
「あはは、意外と食べたよね」
レモンの浮いたアイスティーを置きながら、笑みを零される。
「うん、美味しかった。ご馳走様です」
「いーえ、お粗末様です」
食後の紅茶を啜って一息つく。こうした食後のぼんやりとした時間は心地よくて、なんとなしに彼の顔を眺めていれば首を傾げられた。
「何?」
「ううん、なんでも」
「そればっかりだね?」
「そんなことない」
言い終えて片付けを始める。彼が残りをしてくれてる間に、私は手洗いに席を外した。
* * *
リビングに戻るとお昼まで読んでいた本の横に、湯気を上げるコーヒーが置かれていた。なにからなにまで至れり尽くせりだ。
「やっぱり一家に一人日向くん……」
「なにそれ!?」
うっかり言葉を漏らせば、先程を上回る勢いで慄かれた。
カップを傾けて「やっぱ苦い」と顔を顰めれば、間髪をいれずシュガーポットとミルクを出される。
「むぅぅぅ、おこちゃま扱い……」
「なんだ、それ」
くすりと笑みを落として彼も向かい側に座る。不満ながらにそれを見届けて、自分も読みかけの本を開いた。
再びの、穏やかな時間。
コーヒーの香るリビングには潜めたような息遣いと紙を捲くる音ばかりが目立つ。その密やかさに目を細めて向かい側を見遣れば、同じように視線を巡らせていた従兄弟と目が会い、ふと悪戯心が湧いた。
本とカップを持って座る場所を移す。遠慮なく隣から彼の読んでいる本を覗き込めば、頬に一刷毛の朱が掛かったのを見逃さなかった。
「よしよし」
「……よしよしって?」
「なんでもないでーす」
手に持った文庫本で顔を隠しながら小さく困惑する彼を横目に、一人笑みを零して本を開く。横で吐かれた息が嫌そうではないと感じるのはいささかに楽観的だろうか。隣のちょっと落ち着きのない様子に得意になりながら、それでも和やかに時間は過ぎていく。
こうして、週末、二人の時間は楽しく過ぎていくのだ。
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