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料理が苦痛なあなたへ。いのちの栄養と人間としての尊厳を創り出す料理とは

私はもともと料理が嫌いでした。

だって一生懸命作ったところで
食べるのは一瞬。

なんで私ばっかり
いつも料理のことを考えなくちゃいけないの?
なんて思っていました。

でも、今は
料理することの意味が変わってきています。

・食べること
・作ること

そこに加えて

料理を作らせて頂いている

そんな風に思えるようになってきました。

私の意識を変えてくれたきっかけの一つが
辰巳芳子さんの著作との出会いでした。

今日は
辰巳芳子さんの本から一部引用させて頂き、

私が今、感じている料理することの素晴らしさを
お話したいと思います。

人間の尊厳を形成するための展開料理

次に紹介するこちらの言葉が

今まで私が抱えてきた
「現代」の食と料理に関しての違和感を
言い表していました。

人は何故食さねばならぬか。

それは呼吸と等しく、
いのちの仕組みに組み込まれた
厳然たる在り方である。

さらに、その仕組みとは、
いのちを刷新する弛みない営みであると、
かねてより申し上げてきました。・・・

時をおいて、食すということは、
いのちへの敬畏であり、

他者のために食べものを用意することは、
いのちへの祝福であると、
いえるようになりました。

加えて、ここに、

あらゆる生きものの中で、
食べ心地というものを組み立てうる(料理する)のは、
人といわれる私共のみである、

と申し添えます。

この、あたりまえであって、
あたりまえではない事実をしみじみと我が身に当て、
省みていただきたい。

人であることの独自性に気づかず、
またないがしろにする、迂闊な日々の集積は、
いかんせん実態としての自己萎縮を招く。

一方、つくることを、それなりに受け止め、
努力する人の生涯は、
何時とはなしに、無理なく仕上がっていく。

辰巳芳子「辰巳芳子の展開料理 基礎編」より

毎日の食とは
ただ食べれば良いわけではありません。

食べる、ということは「いのち」を繋ぐ行為であって

何か栄養のあるものを食べてさえいれば良い
という考えには違和感を覚えていました。

・サプリで本当に健康になるんだろうか?
・完全食と言われるものだけを食べていたら健康なのかな?
・栄養バランスってみんな同じなのかな?

栄養素という観点から見てしまうと
なんだか無機質な感じがして

気が抜けたとでも言いますか、
なんだか
大切なものが抜け落ちてしまっている
ような感覚がありました。

料理についても、同じです。

いのちへの栄養は「栄養素」だけでは測れないもの

だと私は思っています。

同じものを使って、同じ料理を作ったとしても

素材が持つエネルギー
作る人の在り方
食べる側の受け止め方
などなど

数値化できない要素が変わることで
出来上がった料理の持つエネルギーには
大きな違いが生まれると思うんです。

ファストフードと家庭料理が
明らかに違うところはここなんだと思います。

手づくりすることに出汁をとること

今のこの多忙極まる時代。

~出汁をゆっくりとる~
という習慣自体が消えかかっています。

しかし、昔の人は良く見つけたもので
昆布は北海道のアイヌから、
鰹節は南地方から。

南北の融合があって、
今の多彩な出汁の味の基礎が築かれてきました。

出汁は日本人の智慧の結晶です。

一例として、1日3回、1年365日、10年で956回。

なんらかの手づくり、
特に出汁の影響を受けて食をまかなった人、
間に合わせで済ませた人の

血液、血管、あらゆる細胞、骨の組成などは、
全く異なる。

異ならずしてどうしようかというほどの差である。

而して、食す人に四分の効果、
供すべく努めた人に六分の力が与えられる。

これを読んで、正直、耳が痛かったです。

というのも、私自身が
しっかりと出汁をとる回数はかなり少ないからです。

現代人は、みんな忙しいから仕方ない・・・?

でも、
出汁は手間をかけてまで取る価値がある
ということもよーくご存知の方もいらっしゃると思います。

その結果、辰巳さんが著書の中で提唱しているのが、

出汁をまとめて1週間分とること

でした。

そして、出汁をベースに
色々な合わせ調味料も一緒に作っておくと、
時間も味も一挙両得できますよというお話です。

なるほど。

もともとは料理は好きでなかったという辰巳さん。

だからこそ、
少しでも楽になるような工夫を
と考えられた末に生まれた知恵です。

楽を求めるのは
決して悪いことではありません。

「ふと我にかえった時」の「私」に
「ゆとり」があるようでなければなりません。


異常なまでにゆとりがない時代だからこそ
意識してゆとりを生み出す工夫が
必要なんだと思います。

そして、そのゆとりが生み出すものを
このように伝え、書が締められます。

「ゆとり」と「人間の尊厳」は姉妹だからです。

そもそも人間の尊厳とは、
他者から奉られるものではなく、

自己尊厳し、形成・完成されるものであることを
忘れてはならぬと考えます。


料理にゆとりをもち行っていくことで、
その行為が「人間の尊厳」にまで高まっていくもの
というのです。

毎日の料理

それが単なる苦痛であったなら、
日々培われるのは”自己否定”かもしれません。

「なぜ私がこんなことをしなくてはならないの?」

という気持ちから作られたら
どんな料理が出来上がるでしょう?

けれど、その料理の意味付けが、
感謝や自己への肯定感だったら。

毎日、何回もそれが積み重なったなら。

料理をすることは
人間の尊厳へとつながる

大げさなようでいて、
それが真実なんじゃないかな
そんな風に考えるようになりました。

私自身、
料理への視点が変わってからというもの
意識が明らかに変わりました。

自己肯定感が高いというと月並みですが、
なんとなく「何でも大丈夫」な気がしているんです。

単なる行為ではなく、
「自己変革の一端」としての料理。

それなら、
今よりもっと極める気になれる気がします。

**

料理は
いのちを繋ぐだけでなく
人のいのちを支える行為であり、

自分を高めることにもつながる。

周りに惑わされることなく
自分が心地よい在り方でいられることで
幸福になれる道。

料理にはそれだけの意味合いがあると
私は考えています。

**

そんな想いを持ちながら
料理や食のことをお話しています。

今日は
料理をすることに対しての私の考えを
辰巳芳子さんの言葉を借りながらお話させて頂きました。

毎日本当にお忙しいと思います。
そんな中、料理を作るだけでも素晴らしいことです。

いつもお疲れ様です。
頑張っているあなたを応援します。

そして私自身、
”すごい料理”を目指すのではなく
”心地よい料理”を目指したいと思います。

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綺麗道こと古川綾子でした。



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