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[後日記1]首都圏育ちの不均衡

「首都圏だけに居続けては自分に筋を通せない。ちょっと地方に行ったくらいで何をわかった気になってるんだろう」

生まれも育ちもどっぷり首都圏な自分への苛立ちを自覚したのは2021年夏のこと。オリンピックの厳重警戒が街中に緊張感をもたらし、あちこちの広告は国際的な祭典を盛り上げる一助になろうと空っぽなポジティブさを醸し、名札を下げた外国人らが明治通りの「テナント募集」「空き店舗」と張り紙が軒並ぶ潔癖の全面ガラス張りのビルを通りすぎ、代々木公園の周辺を少しソワソワしながら歩きまわる。

開会式には知人や、そのまた知人のダンサーが出演していて、とにかく「この日を迎えられるか不安もあったが」無事現場を終えられた感謝をSNSで綴っていた。かたやニュース映像の端っこに表示される感染者数はあり得ない桁に跳ね上がっていた。なぜか私の周りで感染した直接の知人は奇跡的にいない状況だったが、住んでるマンションの前を日夜走る救急車が増え、心なしかサイレンにも普段とは違う焦燥感が絡んでいるように感じられた。
アーティスト、写真家、デザイナー、イベント・展覧会企画に携わる友人らとは、文化庁の補助金やサポートにどんなものがあるか、なんて話をすることが増えたと思う。税務のいろいろ、面白い人ほどコロナ禍で早々に東京を離れ移住しそこに拠点を持った話、いや、2020年春より前に「気づいてる人はもう気づいてた」から移住した、なんて話もした。

みんな、空虚に根拠なくトウキョウを信じすぎてる。こんなにいろんなことが崩れて瓦礫が辺り一面散らかっているも同然なのに、それでもトウキョウに全てがあって安心だとなんとか言い聞かせてる。「中心を信じさせられている」ことのひずみが爆発して、怒りが湿度として身体にのしかかっていた。

もっと他にもいろんなことが起きてたかもしれないけど、とかく終わりに近づくにつれてセミのけたたましさと気温の中にある「苦しさ」が街の空気とシンクロしていたことが真っ先に思い出される。当時のカレンダーを見返して思い出すのは、給付金申請の相談を税理士さんに相談した帰り道、こんなに仕事が延期になったり入金を忘れられたり、不安定な時期いつまで続くんだろうと、ふっと心細くなったこと。夜中の公園で、大学時代からの友人らとマスクをせずに、酒屋で買ったおしゃれなクラフトビールの缶とコンビニのおつまみを買ってベンチで話しながら、線香花火をした日もあった。湿度が高すぎてなかなか最後まで散ってくれなかった。

ちょうど「言葉は身体は心は世界」初稿をデザイナーの阿部航太さんに送ったのが7月の中頃で、8月はテキストの合間の挿絵をさまざまなアーティストの友人らに相談し始めた頃でもあった。既存作品の提供、新作の制作(イラストレーション、音源、ARフィルターなど)を依頼するそれぞれの作家性と関係から生まれる会話やアイデア(時に自分の本に関係ない相手側のことも)がとにかく精神的な救いだった。自分が扇の要だとして、いろんな人の創意を掬いあげて掻き回して空気の流れを作るような、このイメージで今後の生業含めた日々を過ごし続けたいと強く思ったりして、その気持ちだけでもまた救われていたのだった。

同時に、1つだけ本に収録できなかったテーマが頭の片隅でくすぶっていた。

自分が過ごす場所によって、脆弱なほどに所作や声音、話し方や思考までも影響を受けてしまうこと、そしてその身体感覚の変化に非常に繊細な自覚を持っていることについて、これまで公私で訪れた非首都圏の風景や人間関係から受けた身体的・精神的な影響を引き合いに書こうとしたのだが、そこで冒頭の言葉がよぎった。

「首都圏だけに居続けては自分に筋を通せない。ちょっと地方に行ったくらいで何をわかった気になってるんだろう」

千代田区の皇居前にあった病院で生まれ、その後も千葉県船橋市、神奈川県横浜市(の中でも横須賀の市境で山と海が近い、いわゆる「横浜のハズレ」のエリアではあるが、首都圏内であることには変わりはないだろう)、米国ニューヨーク州北部、テキサス州ヒューストン、横浜に戻ってからも鎌倉の学校に通い、国分寺にある大学を卒業してから東京23区界隈を転々とした自分は、どう考えても根っからのシティガール。1時間に5本以上は運行する公共交通機関が徒歩15分圏内に何かしらあって、ちょっと足を伸ばせば何かしらの大型商業施設があって、身につけるものの選択肢だって数多とある。ここには何もないから他所に行かなければ手に入らない、と思ったことは、ほぼない。

そんなふうに生まれ育ったら、首都圏とはワケの違う空間条件や空気の質感、テンポにカルチャーショックを受けるのは当たり前。ふらりと訪問した束の間に感じる変化を少しばかり噛み締めてさよならして、元いた場所にフィットすることにちょっと時間をかけてまた元の日常に戻る。そんな短期体験をちらほらしたくらいでは何にも責任を持って書けない。でもそれを感じうる感受性は強烈なくらい自分にある。だからちゃんと書きたい。でも今は経験不足。そんな中途半端な自分になぜか苛立ってしょうがなかった。

だから、というか今思えば、奇遇にも制作会社に勤務していた2013-2017年の間に地方出張を含む案件が多かったのは首都圏育ちの不均衡に気づきの伏線をくれていたのだと思う。奥能登国際芸術祭2017立ち上げに制作や事前PRイベント企画で関わることになり、私が諸事情でプロジェクト半ばで退職することになってもご縁を持ってくださるような温かい人々と出会えた。

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