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「楽しく」と「真面目に」のバランス(統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話その29)

職場が特定されるような書きぶりは伏せるが、今回は実際に私が勤務している現場を踏まえて書いていこうと思う。

私は18歳の頃に統合失調症と診断され、3ヶ月の精神科病棟での入院を経て大学進学のため上京、卒業後帰郷、20代前半までは実家に暮らしながらアルバイト、20代後半から30代前半は臨時職員をしていた。30代後半から正職員の公務員となった。それまで社会の中でそれなりに働いてきたわけではあるのだが、イマイチ他の人よりも、社会性が身についていないような面がある。それが統合失調症が要因なのかは、よくわからない。

10年以上働いている現在でもイマイチよくわかっていないことのひとつに、「楽しく和気あいあいとやること」と「真面目にやるべきことはやること」のバランスをどう取れば良いか、ということがある。

私は、根が真面目なタイプで、やるべきことはしっかりやりたい性格だ。仕事においても、時に休みたいとかペースを落としたいということはあっても、やるべきことを無責任に投げ出すということは、あまりしたくないと思っている。

ショッピングモールの大きいツリーにて

私の職場に、会計年度任用職員の60代女性がいる。その人は明るくおしゃべり好きの人で、常に誰かとしゃべっていないと気が済まないタイプだ。いつも仕事が立て込んでいるわけではなく、やることもその人にとっては気楽なのか、余裕がありそうに、誰かを見つけては話しかけておしゃべりをしている。独特の笑い声がいつも聞こえてくる。私も、何かの折には話しかけられる。最初は私の体調や子どものことを気にかけてくれて、私の方も気が和んでいた。職場で滅多に優しい言葉をかけてくれる人がいないので、嬉しかった。そう……最初のうちは‼️

私が正職員であることを鼻にかけているわけではけしてない。しかし、やるべき仕事は責任が問われることもあれば、荷が重いようなこともある。仕事量も多い。常に気を回してなくてはならないことも多々ある。余裕の笑顔で、誰にでも分け隔てなく優しく振る舞う天使のような職員であれば良いのであろうが、現実は眉間にシワを寄せて、デスクに溢れんばかりの書類と葛藤している日々だ。私は、だんだん余裕そうにおしゃべりしたり笑っている人にイライラ悶々としてきた。その人はけして悪くない。本来であれば明るく振る舞えるその人こそ職場のありがたい存在だろう。眉間のシワが増えるばかりで、イラついてる可愛げのない私の方が有害物質だ。その人が気にかけて声をかけてくれることも最初のうちは嬉しかった。だけどその人と自分に求められる配分は違うのだ。「楽しく和気あいあいとやること」と「真面目にやるべきことはやること」の配分が違う。その人が5対5だとしたら、私は3対7くらいかもしれない。やるべきことをやってから、はじめて笑って軽く冗談でも言うことが許されるのでは、と考えているくらいだ。やるべきことをようやく済ませたと思ったら、また次の仕事がどんどん迫ってくる。仕事と仕事の狭間で、私が笑えるのはたった2分だ。傍らで上司たちが話す、「シュレッダーにネクタイが巻き込まれた人が実際にいた」という昔話を小耳に挟んでちょっとにやつくたった2分だけだ。

親鶏のだし効いてる蕎麦が旨い季節

私はやるべきことに集中するあまり、人を遮断する時がある。「話しかけないでください。指一本触れないでください。」という見えないお札を額に貼っているかのようなオーラを自ら発することがある。そうでないと仕事が片付かない時がある。しかしそれが長く続くと、ひどく虚しくなってくる。人を遮断する日々が続くと、一体何のために私は仕事をしているんだろう、そこまでしてやるべきことはあるのか⁉️と自問する瞬間が必ずくる。そしてどっと疲れる。楽しそうに笑ってる人たちを羨ましく思う。仕事なんてできなくても、サボっていたとしても、人と笑い合いたいと感じている自分がいる。そう感じたら、私が真っ先に休まなくてはならないタイミングだ。休日に子どもや旦那とゆっくりする。ポーっとくだらないことを考える時間を持つ。見なくてもいいYouTubeを見て、やらなくてもいいセルフネイルをして、摂らなくてもいい嗜好品をむしゃむしゃ食べる。自分に「ゆとり」を持たせる。会計年度の人の朗らかな笑い声のように。「余りある豊かなもの」を自分に取り入れる。いつもより遅く起きる。子どもの生まれたばかりの肌や髪に触れる。しまむらでお求めやすい価格でヘアアクセを数個買う。大金をかけなくても「余りある豊かなもの」を発見する。そうやって私は回復していく。だからと言って、自分が忙しい時に笑っていられる人にイライラしなくなるわけではない。だけどまだ寛大になれる。私にも「余りある豊かなもの」はあると信じられる。イライラするのは、自分にはない、不足していると思うからだ。自分にはあの人のような時間はない、余裕はない、笑い合える人がいない。いいや、違うぞあやこーんよ、と自分に言いきかせる。私にはある。あるのだけれど、今はそれを選ばない。私は今、目の前の書類と格闘することにする。それはクリスマスや正月に豊かな時間を過ごすために。何事もなく家族とカニを食べるために。そのために今は頑張る。「余りある豊かなもの」を満喫するために……。

忙しい時に笑っていられることが私にはできない。誰かにたやすく笑い話を持ちかける余裕を持てない。かと言って、ずっと人を遮断していると途端に虚しくなる。「楽しく和気あいあいとやること」と「真面目にやるべきことはやること」を、バランス良くやれる術を、まだ私は持ち合わせていない。現在も忙しなく仕事に集中し、人を遮断し、虚しくなり、休日に家族に癒され、また新しい週が始まり…その繰り返しである。職場で笑っている日が全くないわけではないが、師走の現在ではごくたまにである。

しかし、自分はけして間違えていないよな、と思う。笑い話をしに職場に行っているわけではない、仕事をしに行ってるんだよな、と。確かに人との交流があるからこそ仕事は楽しくなるが、まずは自分のやるべきことをやってこその交流だよな、と。こんなに生真面目に考えるまでもなく、フツーの人々はそれをフツーに行っている。どんなに忙しくても、合間に小話をして笑っている。なんてスマートなんだろう。なんて大人なんだろう。10年以上働いても私にはよくわからない。忙しい合間に小話を挟んで、適度に笑うことが。会計年度の人の笑い声も、きっと仕事の合間の息抜きだろう。けしてサボっているわけではない。私には上手い息抜きができない。そして仕事100%になってひどく疲弊する。それが統合失調症患者の不器用さなのか。はたまた社会性の不足なのか。

そんな自分が素に戻れるのが、休日の「余りある豊かなもの」の発見だ。そうやって休日に自分自身を取り戻し、休みが明けたら、また平日の戦場を生きている歩兵が今の私の姿なのだ。パソコンを打ちながら、休日にやらなくてもいいセルフネイルのラメがギラっと光った。ナイフのような心もギラつかせながら、キーボードをカッタカッタ鳴らす。もうすぐチョコレートケーキだ。もうすぐ餅だ。もうすぐカニだ。心に吹く木枯らしに負けないように、椅子にかけていたカーディガンを羽織り、少しだけ温もりを感じた。

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