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「できない」を笑わない

火曜日は子どもの体操教室だった。

すこしはやめに到着した教室で、(前の時間帯の生徒さんだろうか)小学校高学年の女の子たちが、つぎつぎとバク転を決めている。
その姿に圧倒された。

いったいぜんたい、どのような手順であれができるようになったというのか。手順をふめば誰にでもできるものなのか。
わたしには、あれができる道筋がまったく見えない。

毎朝のヨガ配信で、先生に「できれば、三点倒立もみなさんやってみるといいですよ」と声をかけられ、「そんなの、とてもできませんよ……」と思っているわたしと、目の前の、10年ちょっとしか生きていないのに軽々と大技をやってのける彼女たちの「生き方のちがい」、みたいなことを考えてしまう。

レッスンが始まった。子どもは、前回より明らかに動きがよくなっている。あいかわらず側転はまったくできていないけれども。
〈よく見て、まねするんだよ〉と、遠くから合図を送ると、運動しながらわたしのほうを〈よく見て〉いて大変危険だった。要らぬことをしてしまった。

すこし気になることがあった。
孫の付き添いで来たらしいおじいさんが、孫が失敗するたびに声を出して笑っている。微笑ましい気持ちも、「かわいい」という意味なのもわかるけれど。
その子は、何かするたびにおじいちゃんのほうを見て、失敗するとおどけてみせている。だけど、ここはやったことのないことに挑戦する場所で、真剣になるところ。大人がまずふざけてはいけない。
失敗を笑ってはいけない、と思った。

子どもたちが、自分の背丈かそれより高い大きさのとびばこに、勇敢に向かっていく。とびこえるためには、全力で走る、踏切をしっかりとつよく、手をできるだけ奥につく。そして、最後に必要なのは勇気だと思った。思ったものの、さらに考えてしまう。
勇気とは、何だろう。

レッスンが終わった後も、子どもたちは列をなしてその大きな跳び箱に向かってぴょんぴょん跳んでいた。飛び越えられない子がほとんどだけど、みんな楽しそうに、全力で走り、思いっきり踏み切る。

コーチが子どもたちの列にまじり、跳び箱をひょいと飛び越え、向こう側で華麗に前転して見せた。
それをみた子どもたちの顔つきが変わる。成功率があがっていく。
コーチは、それをうれしそうに見ている。

走りたりず、踏み切りがうまくできていなかったうちの子も、みんなにつられて全力で走り、最後には踏み切れるようになっていた。

勇気とは、「できない」という意識をとりはらうことなんだ、と思った。
そのストッパーを外すには、できてる人を見るのが効果的なんだな。

小学生や中学生でバク転を決めまくる子どもたち。
すこしでも「できない」という怯みがあったらできるわけがないし、危険だ。彼女たちは、「できない」という壁をどこかの時点で取っぱらったから、今「できる」人になっている。

挑戦している人を笑うのは、それを否定する行為だと感じた。「できるわけないよね」と言ってるみたいだと。失敗を笑うことは、挑戦している人にとって、邪魔でしかない。

わたし自身も、勝手にいろんなことを「できない」と思い込んでいないだろうかと自省する。真剣にやればできることを「やっぱりできないや」とおどけてごまかしてはいないか。

だれかが真剣にやっていること、「できない」を笑わない。
それは自分のことであっても、同じだ。

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