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ケーキは不平等に。

こちらは、「稀人ハンタースクール Advent Calendar 2023」に参加するために書いたエッセイです。カレンダーをクリックすると、「クリスマス」をテーマにした書き手の愉快なnoteを見ることができます。

昨日、夢のなかで相方が言った。

「子どものころ心のひきだしにしまったものがね、大人になったときにその人を助けてくれるんだって」

相方はこんなことを言う人ではない。
いつものやつだ。わたしは、夢をきっかけに何かを思い出すことが多い。
今日はクリスマスの記憶だった。

わたしの心のひきだしにしまってあるクリスマスは、「翌朝のケーキ」だ。
わたしは今でも、朝にケーキを食べることを好んでいる。
だけどあのころのおいしさには到底かなわない。それは「勝利の美酒」ならぬ「勝利のケーキ」だったから。

母は、行事を重んじる人だった。
思想どうこうは重要ではない。誕生日、結婚記念日、クリスマス。絶対に、その日に、何があっても祝うのだ、という重んじかたである。
その日の数週間前にはケーキと、精肉店で唐揚げを(チキンなどというおしゃれな文化はその頃、すくなくとも地元では無かった)キロで予約していた。(揚げ物を家でしない人だった。片付けも大変だからね。)

クリスマスパーティーの決行は、12月24日。
つまり、その日が決戦の日となる。

揚げたての唐揚げと、他にもなにかご馳走的なものを準備してくれていたと思うが記憶がない。後に控えるメインイベントに気を取られていたのかもしれない。

わが家のクリスマスのメインイベントとは、「ケーキじゃんけん」だ。
まずホールケーキを人数分、明らかに不平等に切り分ける。
そしてじゃんけんをし、敗者には小さなケーキが、そして勝者には大きなケーキが与えられるという…イエス・キリストもびっくりのしょうもなくて熾烈な争い。
それが、「ケーキじゃんけん」である。

このイベント、どのように発生したのかがわからない。
社会に出てずいぶん経つが、誰かがケーキを故意に不平等に分けているのを見たことがない。もしかしてわが家だけなのか。言い出せないだけで、きっと他にもやっていた家庭はあるのではないか。
物心ついた時から家を出るまでだから、高校卒業までそのイベントは続いていたと思う。全員本気でやるので、毎回ご近所迷惑なぐらいにむちゃくちゃ盛り上がった。

ケーキを奪い合うメンバーは五人。父と母、わたしと、双子の弟たち。
腹が立つのは、「甘いものは好きじゃない」と公言している父がこのケーキじゃんけんに参加してくることだった。やたらじゃんけんが強いのも忌々しかった。

逆に、母は、人一倍食い意地が張っているのにじゃんけんが弱く、毎度すぐ敗退していた。双子の兄の方は、元来のゆずってしまう性格が影響してか、こちらもはやめに敗退。残るのはいつも、負けず嫌いの双子の弟の方、ケーキが好きなわたし、そして父だった。

負けず嫌いの弟は「勝ちたい」という思いが強すぎて目的を見失っている。あくまでも目的は、じゃんけんの先にある景色…そう、ケーキなのだ。
彼ではわたしの相手にならない。おちついて奴の出す手を見極め、勝利。

残るは父だ。この人はケーキを食べることが目的ではない。単におもしろがって参加している。(腹立つ。)こういう相手にはなかなか勝てない。
勝つ年もあれば、負ける年もあった。
父に勝つのはものすごく嬉しかった。聴衆(敗けた家族たち)も大喜び。
父の「あいたー!負けた!!」という声まで憶えている。

というわけで、夜だけでは食べられない量のケーキをゲットした私は、「明日の朝食べよう」と、残りにラップをかけて、冷蔵庫にいれるのだった。(※ケーキのような生菓子は当日中に食べることを推奨されています)

翌朝、すこしだけ固くなった生クリームと、前日より水分を吸ってしっとりしたスポンジの食感がたまらなく好きだった。
前夜の余韻を思い出す、しあわせな味。

わたしは家族とうまくいかないこともたくさんあった。
実家に帰るのが苦痛でしかたない時期が長かった。
だけど、家族みんな必死の「ケーキじゃんけん大会」を思い出すと、にやにやしてしまう。

なんで当然のごとく不平等に分けるんだ……
ふつう子どもに大きいのをあげるだろうに、なんでじゃんけんで奪い合うシステムにしたのか……
この企画考えたの誰だよ……

親として、わが親の思考がちょっと謎だけど、おもしろすぎる。

今のわたしの生活には、「ケーキじゃんけん」はない。
食いしん坊の母は亡くなったし、父は一人暮らし。弟たちはそれぞれに家族がある。
相方は甘いものが苦手だから、クリスマスも誕生日も、ホールケーキをほとんど子どもと二人で分けるような状況。
じゃんけんに勝利せずとも、翌朝のケーキは保証されている。

だけどわたしの心のひきだしにはしまってある。
あのくだらない思い出が、いつでも取り出せる。
あってもなくてもどっちでもいいような記憶。
そういうものが、わたしの根っこを支えてくれている。

きっとそれを信じているから、現在、わたしたち夫婦もさまざま、どうでもいいことにせっせと趣向をこらしているんだろう。

今年のクリスマスも、子どもとくだらない思い出をつくろう。
彼のひきだしに、何かがしまわれることを願って。

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