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サントリーと開高健とわたし

「コピーライターになりたいんやったら、そら、あんた、開高さんやナ」

私が大手家電メーカーに新卒入社して、まだ間もない頃。
漠たる将来への危機感を抱いていた。
「言葉を扱うクリエーティブな仕事がしたい」と思っていた私の想いとは乖離した日々の業務にこれからの自分のキャリアが見えなかったのである。

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なんとか現状を打破せねばならない。

メーカーにいるとしても宣伝部へ。なんなら今の安定など捨てて全く違う畑へ飛び込もう。それくらいの覚悟を持って週末は宣伝会議のコピーライター養成講座を受講するために堂島の中央電気倶楽部へ通っていた。

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「コピーライターになりたいんだ」

そう言い放った私に対して、当時84歳の祖父が私に冒頭の言葉を投げかけたのであった。


ええか、「やってみなはれ」やで。

私は大阪という地で社会人のスタートを切った。
東京育ちの私は大阪に住むのは初めてである。だが、祖父母が東大阪に住んでいることもあり、半分ホームタウンでもあった。

週末は祖母の手料理を食べに行き、祖父の経営者時代の話を聞きに行く。それは祖父母孝行というよりも、単純に安心と学びをもらいに行っていたという感覚に近い。

祖父はウイスキーをちびりと飲みながら、初の男孫である私に諭すとも激励するとも違う、重みのある声で言う。

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「ええか、なんでもやってみなはれや。あんたは大企業に入ったかもしれへんけどな、安定などあらへん。いつまでも人に使われとったらあかんで。コピーライター、やってみなはれ。」

我々の親世代はいわゆる「大企業は安定」という昭和的価値観を持っていることが多い。私も入社するまではそうだった。それゆえ、祖父からも今のポジションを捨てることを反対されるのではと懸念していた。

しかしそれは全くの杞憂であった。

「あんたはな、育ちは東京でも中身は大阪の子や。サントリーを見なはれ。鳥井さんや佐治さんがよう言うてはったんやで。やってみなはれ、とナ。」

そう言いながら、祖父は自室の書棚から壽屋(現サントリー)のコピーライターであり、芥川賞作家の開高健の書籍を何冊も私に手渡した。

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サントリーと大阪が私を育ててくれた

それからというもの、私はこれまでサントリーという企業と見えない糸で繋がっていたのだと、思うようになる。

「そういえば、幼い頃からラグビーをしていた関係で、先輩はサントリーの現役選手、私自身も府中のグラウンドや工場へは何度も足を運んでいたナ。」

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「コピーライター養成講座で初めて誉められた課題が『サントリーの広告を作る』だったナ。」

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「東京の宣伝部へ転勤が決まった時に、社外の広告会社の人から
『これボクのお守りや。きっと、コボちゃんのこと東京で守ってくれはるわ。君だけにおすそ分け』と言ってサントリー二代目社長佐治敬三さんの名刺のコピーをくれたナ」

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これは大阪という土地柄だからかもしれない。
私の都合の良い解釈かもしれない。
けれど確かに、私は大阪をルーツにもつサントリーに育てられた。日本の飲酒文化や広告文化を創造してきたサントリーを愛す大阪のクリエイターたちから、大阪のクリエーティブを仕込まれた。

……知らんけど。

最強のふたり

“開高は自らの半身であった。佐治敬三という男の奥底に住みついている繊細で傷つきやすい青年の心が、それを共有していたものの死を前にして雄叫びを上げるようにして慟哭していたーー”
(引用:北康利著『佐治敬三と開高健 最強のふたり』)

話は少し逸れる。佐治さんや開高さんに比べると全く持ってスケールが小さいかもしれないが、振り返ってみると、要所要所で私にも「最強の相方」が何人かいる人生である。

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私は東京の宣伝部へ転勤したのち、26歳のタイミングで最強の相方と出会ったことをきっかけにメーカーを辞めた。そして彼のいるスタートアップでコピーライティングや商品企画に携わるようになる。つまりクライアント側から「言葉を創る側」へとステージを移したのであった。

相方と共に事業立ち上げをし、名だたるメーカーの研究者、企画者の方々と同じ星を目指す。想いを翻訳する我々は作り手の想いを作り手以上に理解する必要がある。創業者の想いを知る必要がある。そのためには必ず会社の社史を読み、技術を学び、研究所に足を運ぶ。

戦後、高度経済成長を支えた老舗のメーカーにおいては社内外のクリエイターが作った「コトバ」が必ずそこにあり、モノの価値を定義する広告クリエーティブの本質は切っても切れない関係性があった。

それは現代になっても同じである。もっと言うと広告という領域を飛び越えてのコトバ作りが重要になってきている。

新規事業や新商品の課題に対して、元メーカー人としてメーカーの方々と一蓮托生となり挑む日々。その度に、「最強のふたり」である佐治敬三と開高健の二人をベンチマークにしたのは言うまでもない。

拝啓、開高健さま

先日、茅ヶ崎のご自宅へお邪魔しました。
4月に一度伺いましたが、現在、コロナという疫病が流行っておりまして、臨時休館されていらっしゃいましたね。なので、念願の初訪問です。

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多くのファンと同じように、勝手に縁を感じて、勝手に傾倒している一人かもしれません。しかし、そうであっても私は私の言葉で感謝の言葉と、憧れをご自宅でお伝えしたかったのです。

その件については、テラスに置いてあったノートに2021年6月18日付で記しました。お手隙の際で構いませんのでご一読いただけますと幸いです。

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おそらく、これからはもっと「書く」ということが私の生業になってくると思います。それは、コピーなのか、エッセイなのか、詩なのか、はたまた洋酒天国のような広報誌なのか。その全てかもしれませんし、全て違うかもしれません。

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「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」

この言葉が、実感できる日はそう遠くないかもしれないと、ここ最近感じています。開高さんのように、自分の目で世を見て、頭を抱え、あぐね、鬱々としながらも会心の一筆を捻り出す。明日、世界が滅びるとしてもそんな私でありたいと思っているのです。

最後に。
祖父は92歳になった今も開高さんと佐治さんの話を嬉しそうに話しています。実は、祖父母宅の近所には開高さんの弔辞を読まれた司馬遼太郎さんの記念館があり、幼い頃によく連れて行ってもらいました。当時はそんなことは全く知らない小僧でしたが大人になった今、点と点が繋がり、一つの星座が浮かび上がるような感覚に陥ります。

また、茅ヶ崎のご自宅へお邪魔します。
こんなご時世ですので、開高さんもどうかご自愛くださいませ。

敬具

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