静寂

去年メキシコを旅したとき、シレンシオと呼ばれる場所に行った。もう長いこと、世界中の人たちから愛され続けてきたプレイスなのに、あいにくガイドブックには載っていない。

そこに何があるかって、ぬくぬくとした金色の日差しやよどみなく流れる澄んだ空気。躍動するリズムと旋律で落ちる滝の音。芳しい花の香りもあったかもしれない。とにかく言葉は失われるほどに、じっと感じ入り続けたいような、沈黙をため息で破ることしかできない、美しい静寂を味わえる場所だった。

かつてそこへは長く暗い洞窟をひとりで抜ける必要があったという。誰もが行きたがったが、難所だったがために行く人は限られた。一説によると暗闇ではイメージが上映される。道を往く人の体内に蓄積され滞っているあらゆるイマジネーションが暗闇に溶け出し、鮮やかに映し出されるのである。

ある人は黄色いバスに乗って海を渡る夢。ある人は妹に横取りされた着せ替え人形になる夢。あるいは、国籍の違う女性と暮らす夢。それぞれの記憶から生成されるイメージはとても奇妙で、それでいてリアルだった。この体験を得た人々は、このイメージに“優しい悪夢”と名を付けた。

けれど私はその道を通らなかった。洞窟には階段が作られていた。ただそこを登るだけでよかった。今はもう、誰もが自由に行き来している。はじめはちょっと味気ないような気もした。優しい悪夢の後に味わう静寂のほうがなんだか鮮明な感じがするし、だいたい静寂はひとりで味わいたいものではないのか。

けれど実際に階段を登ってみると、ともに味わう静けさがあると分かった。それは、コンサートホールで波打つ拍手の後に訪れるほんの少しのサイレンスにも似て。ステージの灯に照らされた薄暗い客席で、美しい音楽に放心しながら、その味わいを無言のうちに他の観客と共有するあの時間のようだった。

今という静寂をともに味わう。それはいつだって、どこでだって、誰とだってできることだ。メキシコである必要もない。ガイドブックには決して載っていないけれど、行くと希めば誰もが行ける場所。日常でちょっと思い出すだけでいい。自分がこの世界の美しさを、ふと感じた瞬間のことを。

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