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ピロリ菌のお弔いをしたこと

いま、消化器内科のクリニックの原稿を書いてるので思い出したんだけど、
私は高校時代から大学時代まで、十二指腸潰瘍をわずらってました。
うちの父は十二指腸潰瘍がひどくなりすぎて、入院して手術したし、
双子の妹も同じ病気だったし、なりやすい体質だったのかなー。

特に高校時代がひどくて、お弁当がほとんど食べられなかった。
(しかし今思えば、私より辛かったのは、母だと思うね。
毎日、ほぼ手つかずのお弁当を捨てて、でも、翌日も必ずお弁当を作って。
母の気持ちを思うと、いたたまれない…)

高3の頃は、お昼がカロリーメイトだけ…。
どうにもお腹が痛すぎて、保健室で休むこともよくありました。

でも腹痛で保健室に行く時、私はホッとしてたんです。

高校には馴染めなかったんだよね。
超田舎で育った私の学校環境は、顔なじみばかり。
1学年1クラスだけの小学校、中学校に行っても1学年3クラス程度。
そんな私が学区外の高校に行って突然、
1学年8クラス、知り合い0人の環境になったんだもの。

全く友達ができなくて、一人で教室にいるのが辛かった。
幸い、中学からの友人と部活は一緒だったから、部活仲間ができたけど、
クラスにいる時間がイヤすぎて、十二指腸潰瘍になっちゃったんですよ。

だから、病気を理由に保健室に行けるのが、ある意味ありがたかった。
これで、次の時間はクラスにいなくて済むな、って。

そんな風に、この病気に助けられた部分もあったからか、
私は十二指腸潰瘍の原因、ヘリコバクターピロリ菌のことを、
「ピロリン」と呼んでました。
自分が無理をすると、ピロリンが出てきてアラートを鳴らす。
ピロリンが来たら、「あ、そんだけ辛いのか」と自分を休ませる。
そんな感じのお付き合いを、4年ほどやってたのかな。

大学生になって親元を出て、一人で病院に行った時、
ピロリ菌は薬で駆除できることを知って。
(うちの両親は、子供に強い薬を使うのをためらって、
ピロリ菌の駆除をしなかったみたい)

それならば!と気軽に治療をお願いしたものの、
薬での治療が終わって、
いざ、ピロリ菌がいなくなったと分かったら…
なんだか、心もとない気持ちになった。

これまでピロリンは、ずっと私の中で生きていて、
休むべき時を知らせてくれてたのに、私の都合で殺してしまったな、と。
あまりにあっけないお別れだったから、なんか気持ちがおさまらなくて。

それで、近所の大きな公園を自転車で何周もまわって、
ピロリンのお弔いをしました。

友人たちはこの話を聞いて爆笑してたし、私も笑ったんだけど、
なんかこの出来事は、私の中に引っかかってました。

その想いを文字にしたのは、文化人類学の入門講座。
最終試験課題がレポートだったんだけど、お題がこれ。

「病気が治るとはどういうことか」

私は、レポートで自分とピロリンの日々のことを書いた。
確か結論は、こんな感じだったと思う。

「私にとって病気は、周囲にとがめられずに自分を休ませる手段だった。
だから病気が治るとは、休息できる場所から出て、
もとの生きづらい世界に戻っていくことだ。」

出せば誰でも単位がもらえるレポートだったんだけど、
このレポートで、私は教授から個人的にお褒めのメールをいただいた。

その後、卒業論文も修士論文もうまく書けなかったから、
この最初のレポートが、唯一、教授に褒められた書き物だ。
そう思うとピロリンは、死後?も、私を助けてくれたんだなぁ、と思う。

ありがとう、ピロリン!







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