ノンセクシャルという自我が自分をバチバチに縛ってくる
私にとってノンセクシャルは、大事なアイデンティティでした。
いや、もちろん今もそうであるはず。だけど、ここ何年か抱えていたモヤモヤを書いてみようと思います。
カテゴライズされることへの安心感
自分の悩み、絶望感、生きづらさをGoogleの検索エンジンにひたすら打ち込んでいた暗黒時代。もちろん、それはセクシャルのことだけではなかったけれど、いろんなWebサイトを見て調べていた中で、ノンセクシャルという言葉と初めて出会った瞬間は、衝撃と同時に、泣きそうになるほど安心したのを覚えています。
「こんな自分を定義してくれる言葉がある」。
ひたすら一人で彷徨い続けていた海で、ポンと救命ボートが差し出されたような、この世界に生きているのを少しだけ許してもらえたような、そんな感覚でした。
当時は「LGBT」を耳にする機会が少しずつ増え始めていたときでしたが、その「LGBT」にもラベリングできないのが、アセクシャルやノンセクシャルだったので、認知度は今よりも相当低かったと思います。
ノンセクシャルを知ったことで、その日から名前の付いたカテゴリーに所属できた私。
でも、それがいつのまにか、ちょっと窮屈になっていました。
安心感と引き換えに、考えるのを放棄しちゃっていた気がする
「私はノンセクシャルだから」と安心感がある反面、「私はノンセクシャルだから」と自分自身でフィルターをかけてしまっていることも多い気がしていたんです。
「ノンセクシャルだから(仕方ないよね?)」。
そう自分自身に言い聞かせて、それで片付けている部分、それ以上考えないようにしている部分……あるよな?、と。
たぶん、ノンセクシャルという言葉を知るまでの過程が、私にとって自分を知るためのすごく大事な苦しみで、いわゆる”ノンセクシャル”になってしまってからは、セクシャリティにおいての自分を深く考える機会が大幅に少なくなっちゃっていたのだと思います。
自分が勝手に定義したノンセクシャルっぽい思考をして、何かあってもノンセクシャルだから、で済ませる。さらに、ノンセクシャルっぽくない考え方をしてしまったときは「いやいやいや、これは私らしくない」と決めつけていたことがあったと思う、無意識に。
本来は、人の数だけセクシャリティがある、はず。
ノンセクシャルだとしても、私のセクシャリティは私だけのものであるはず。
ノンセクシャルだとしても、私のセクシャリティは自由で、それこそが個性で、誰にも何にも縛られることなく、好きな考え方をしていいはず、なのに。
ノンセクシャルが浸透してきたことで、逆に自分の個性がなくなっちゃうのではないか?
あと、正直に打ち明けると、アセクシャル、ノンセクシャルが少しずつ市民権を得るようになってくるにつれて、なんだか焦っている自分がいました。
最近「私はアセクシャルです」と、SNSやメディアで言っている人を目にすることが多くなったり、有名人が「私、これかもしれません」と言っているのを見かけるようになったりしてきて、なんていうか、それが別にあんまり嬉しくはなかった。むしろザワザワしていた。
普通は嬉しいものなのでしょうか?
有名人のこの人と価値観が一緒だ!とか、自分だけじゃなくて同じ人たちがいて嬉しい!とか、一般的になることで除け者感がなくなって嬉しい!とか、変な表現かもしれないけれど、「地元が一緒!」みたいな親近感があるものなのでしょうか?
以前はマイノリティであることに人一倍苦しんでいたくせに、いざマイノリティの中のマジョリティに近づきそうになると、なぜか自分の個性が奪われてしまうような感覚に陥っていて。
アセクシャル、ノンセクシャルが少しずつ広まっていくたびに、「自分が珍しい人ではなくなってしまう」「その個性やアイデンティティが私だけのものじゃなくなってしまう」という恐怖心がなぜか出てきていたんです。
マイノリティの中でカテゴライズされることによって、「それは他の人にはない珍しい個性です」とお墨付きされている感覚に、自分は酔っていただけなのかもしれない。その気持ちに気づいたとき、ちょっと自分が怖かった(笑)。
ですが、もちろん、ファッションとしてノンセクシャルを自認していたわけではないので、本当だったらセクシャルに悩まない人生になりたかった、という気持ちのほうが常に断然と大きいんですよ……。
それでも年齢を重ねるにつれて、少しずつ、ノンセクシャルの自分を受け入れられるようになってきたからか、自分にとって大事なアイデンティティになっていたからか、心のどこかで感じる、その恐怖心を無視できなくなっていたのだと思います。
思い返してみると、HSPもここまで一般的になる前(2016年ごろ)に、自分がHSPだと認識していたのですが、もう最近では、HSP=自分のこと、だとは全く思わなくなっていたなーと(笑)。
個性的でなきゃいけないのに、カテゴライズできない個性は持っちゃいけない気がする世の中
そもそも、アイデンティティって何なのか。
「何者でもない自分」に対する悩みって、よく聞きますよね。
かくいう私だって、セクシャリティ以外のことで「何者にもなれていない自分」に多少なりとも焦りを感じることがあります。「自分は何者だ」と表明できることが、自分含めて、なぜこんなに大事なのでしょうか。
「個性がないといけない」と言うけれど、その「個性」は「何者だ」のように、言葉でカテゴライズ、表現できるものでないといけない。そんな呪縛がある気がしてしまう。
先でお話しした、「カテゴライズされたものが一般化していくことで、それが個性ではなくなっていく感覚、自分が珍しい人ではなくなっていく怖さ」とは一見矛盾しているようで、根本を辿れば同じ問題に感じちゃうんだよな。
もちろん、その個性が経験や環境のことであれば、また捉え方が違うのでしょうが、自我、肩書きの部分においてはなんだか難しい……。
結局、何が「個性」なのか、人それぞれ捉え方は違うよねって話に帰結しちゃいそうですが、私は「人の数だけ個性があって、それには特定の優劣も希少性もない。みんなそれぞれ素晴らしい」と、信じていたい派です。
文字通り読むと「そうだよね」ってなれるのですが、ぶっちゃけそう感じれていないときも多々ありませんか?
私は、正直あります。信念とは真逆なことを、無意識下で感じている瞬間に気づいて、自分にうんざりします。
あ、でも、以前やっていたブログに、「自分はノンセクシャルと名乗っていいのでしょうか?」と、よくコメントをいただいていたのですが、これは全然いいと思っています!!!
この葛藤って本当によく分かるんです。私がノンセクシャルだなんて自認していいのかな?、名乗っていいのかな?とか。
だから、リアルタイムでそれで悩んでいる人には、勝手に私が伝えたい!自分がそう思えば、そうだよ!と。認定員でもなんでもないけど(笑)。てか、認定員なんて本人以外いないからこそ。
それに、そういう概念に名前が付いて、それを知れる情報ソースがあって「私って、これかも?」と思うことで安心できる社会であるのは大事だし、そのための情報収集も大切なことだと心の底から思います。
「そうなんだけど、違うの。本当に伝えたいのは……」
ノンセクシャルに縛らすぎて考えることを止めてしまったという話に戻しますが、カテゴライズされることで「何者かになれた」気がして救われる一方で、それは本質的にはどうだっていいことのような、それで自分の中の何かが解決するわけでもないような、誤解を恐れずに言うと、自分にとって生きやすい社会になるわけでもないような、そんな気が今はしています。
最近は、アセクシャルのことも含めて、「LGBTQIA」というらしいです。(すみません、「LGBTQ+」までは知っていたのですが、IAまであるのはこれを書くときに調べて初めて知りました)
もし、便宜上、自分を「LGBTQIA」に包括してもらえるのであれば、あえて言ってみたいのは「別に、そんな枠の中に入れられたくないかも」ってこと。
この「かも」っていうのが私的にはけっこう重要なニュアンスで、「絶対に入れられたくない!!」という強い意志があるわけじゃない。「そんな枠」って書いちゃったけど、ディスる意味合いも全くないし、「そういう枠」で救われる人も、救われた人も、私含めてたくさんいるだろうし、現在進行形で感謝しているし、「その枠」が好きでもあるし、自ら入っていくときはきっと今後もたくさんある。
でも、やっぱり「LGBTQIA」「ノンセクシャル」を意識して、それとして生きていきたい気持ちは今はあんまりなくて。
ただただ、人間として、自分として生きたい!!!!!
……のかも? というのが現状、心の中にふと湧いてきた叫びです。
さらに言えば、みんながそれぞれ自分として生きる世界であったらいいのにな、なんて。
生きられるっていうか、生きる、なのも大事にしたいニュアンスな気がする。(私にとって)
そんなことを考えていた今日この頃でした。
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