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評価よりも自分の満足感を優先したい

弟の今年の抱負は「要領良く」だそうで。私の家族は年初めに自分の抱負について会話をする。

私はもう記事に書いた通りのことを言ったのだけど、

弟は「去年よりも要領良く生きる!」と言っていた。去年は新しい学校にバイトにととても慌ただしくしていたからなあ。

普段の姿を見てると、確かに私と同じく不器用で要領は、見てて哀れに思うほどいいとは言えない。

弟曰く、過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉があるそうで、やりすぎはやらないのと同じということらしい。

しっかりやるところと力を抜くところのメリハリはとっても大切だと思う。でも、その話を聞いて、ちょっとやだなぁと思うのは、私がいつも全力でやりすぎてしまう人間だからだろうか。

正確には自分が満足できるくらいまで頑張ると、結果キャパを越えて頑張りすぎてしまう感じ。

私は弟が、大変そうでも一生懸命もがいてるところ頑張ってて素敵だと思ってたけどな。

大人になるにつれて、学生時代の常に正解がある頃とは異なり、答えは1つではない。1つどころか、答えがあるかもわからない中で、どうやって自分を評価したり認められるのか。

それはやっぱり、自分の満足度だと私は思う。
もちろん、周りの人の客観的な意見や評価もすごく大切だけど。

きっとここ数日、1日6時間以上やっているプログラミングの課題だって、自分が満足しようがしまいが、提出してしまえば忘れてしまうのだろう。

たとえ、評価が最低点だとしても単位がもらえれば、進級や卒業に大きな影響は受けない。

でも、それってなんかやだ。たとえ忘れてしまっても、最低点だとしても、自分が満足できないものを、満足したと自分を思わせてしまうことがたまらなく悔しいのだ。

こういうプライド高めな完璧主義者が、キャパ越えて身体を壊してしまうことはわかっているのだけど。

身体を壊したら元も子もないのはわかっているけど。

でも、もう少しやったらできるんじゃない?ってどうしても手も思っちゃうし、もう少しやってできた自分、嬉しい自分がみられることを期待したいと思う。

きっと、大変で、無理と思ったその先の満足感や喜びを味わいたいんだ。

とか言っておきながら、

先程、提出したプログラミング課題は反省点が多いものになってしまいました。

でも、満足感はあるからいいや。よくぎりぎりまで頑張った!お疲れ様、私。

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