比べてしまう自分
今、SNSで気軽にいろんな人の生活が見られることは、良い点でもあり、悪い点でもある。私はSNSをみるとどうしても人と比べて焦ってしまう。自分にないものを持っている人がうらやましい。
私はスポーツができない。楽器もできない。これといって自慢できるようなことがなかった私は、頭の良さを自分の武器にしていた。
小学校という小さな世界で優等生であった私は、そのころから周りより頭がいいと思っていた。頭が良いことは私の自信だった。クラスの代表をしたり、ボランティア活動を行い、みんなの前に立つことが好きな子供だった。
周りより頭がいいことを証明したかった私は、中学受験をすることにした。偶然にも中学受験に成功し、私の心の中の自信を客観的にも証明されたことは私の思い上がりを加速させていく。
運よく受かった中学校は私の思い描いていたものとは違った。そこでは私は全てにおいて「普通以下」だった。テストは今まで取ったことのない点数の数々。周りはみんな頭が良かった。持っていた自信はズタボロ。間違いのほうが多くなった私は、発言をすることや前に立つことが怖くなった。
でも私は、「良い学校にいるから」、「全体でみれば私は高いところにいる」と必死に思い込もうとしていた。環境やレベルの高い友達がいることに安心していた。そんなこと自分のことではないのに。
なんだかんだ高校3年生になった私は、当然のように大学受験を目指し、遅ればせながらも夏から予備校に行くことにした。
転機はここからだった。
予備校は私み現実を突きつけてきた。私が見ぬふりをしてる間に、周りは地道に積み上げていた。下にいると思っていた人たちは自分より上にいた。その時、初めて実感した。私は頭がいいわけではなかった。
唯一の自信が崩れていった。もとからあった心配性に拍車がかかった。
ご飯が食べられなくなり、予備校や電車で動悸したり、息苦しくなるようになった。周りと常に比べて落ち込むようになった。精神的に壊れてしまった。
大学は第一志望に落ち、直前で決めた別の大学の二期の試験に何とか滑り込んだ。卒業したあとも、高校時代の人や大学の人たちがいろいろな活躍や活動をしているのを見ると焦ってしまう。
今もまだバイトやサークルができず、理想の大学生とは異なる生活を送っている。
こんな生活をしていて思う。人と比べることは、自分の何になるのだろうか。もちろん努力もせずに自慢げに見かけだけの自信をつけることはよくない。
人と比べることでしか自信を得られないものは自信といえるのだろうか。それなら、誰より上なら自信を持てるのだろうか。私なら、ある分野では勝てたとしても、また別の分野では負けた気になってしまうだろう。
比べるということは客観的な視点でないといけない。でも自信は自分でつけるものだと思う。自信はSNSでは表すことのできない、過去の自分の努力だと信じたい。人と比べることが容易になった世の中だからこそ、目に見える結果よりも、自分にしかわからない努力を認めたい。
客観的に外面だけを比べていた私は、他人にはたとえ見えなくて評価されなくても、自分だけは知っている努力を自信にしていきたい。
まずは見えない努力から。さあ、始めようかな。
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