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天使の胸に、さよならの花束を 番外編



天使の胸に、さよならの花束を ~余命マイナスなわたしが死ぬまでにしたい1つのこと~


 天使の胸に、さよならの花束を ~余命マイナスなわたしが死ぬまでにしたい1つのこと~
『幕間 Book - 君に読む物語』

 黒い髪の天使とうさぎのぬいぐるみに封じ込められた悪魔は、今日も旅を続けています。
 どこかの町で、まだ見ぬ誰かと出会うために。
 幽霊となってしまった人たちの胸に埋められた、未練の花を咲かせるために。

 ――ねえ。あなたの未練はなんですか?

 アイは翼を持たない天使です。
 彼女はとても大切なものをなくしてしまいました。
 だから、二本の足でそれを探しにゆくことにしたのです。 

  

 とある町の、とあるカフェのテラス席にて。
「ふは~、この一杯の為に生きてるぅぅぅ」
 どう見てもまだ十代半ばの少女が、そう呟いた。
 彼女が手にしているのは黄金色をしたシュワシュワ、なんかではもちろんなく、三種のベリーソースがたっぷり塗られたパンケーキである。
 そもそも、飲み物ですらなかった。
「色々と突っ込みたくはあるが、面倒だからパスするからな」
 そう呟くのは、少女の前の椅子にちょこんと置かれたうさぎのぬいぐるみで。
 カフェを訪れている誰も彼もが自分たちの話に夢中で、ぬいぐるみがしゃべっている異常なこの状況に少しも気付かない。
「え~、なんでさ。楽しくお話しよ~よ」
「さっきのセリフは、シチュエーションも手にした飲食物もなにもかもが違う」
「あはははっ。結局、突っ込むんだ?」
「まったく。どうして君は寄り道ばかりしたがるかな」
「お仕事に休憩はつきものなんですぅ。適度な休憩は魂のお洗濯なの。ふんす」
「君、別に食事なんてしなくても死なないだろ。無駄な時間だ」
 うさぎのぬいぐるみ――ディアは、パンケーキのソースで口元をベタベタにした少女へうんざりと言った感じで口にした。
 実際、彼の言い分は間違いではなくて。
 天使であるアイの肉体は特別製で、空腹を感じることはない。
 ただ、〝無駄〟と断言されて、アイはその端整な顔を不機嫌にしかめた。
 そもそもが珍しくアイが『カフェに入ろう』なんてディアへ提案したのは、十数分前。
 お店の前を通った時に、見た目年齢がアイと同じくらいの子たちが、友人や恋人たちと楽しそうにお茶を飲みつつおしゃべりしていたから。
 その中にはぬいぐるみを持参している女性の姿も少なくはなく、彼女たちはやっぱり楽しそうにスイーツを食べながら手元のぬいぐるみに話しかけたり、写真を撮ったりしていた。
 なんとなく、そう、なんとなく〝いいな〟ってアイは思ったのだ。
 自分もディアと同じ風に過ごせたら楽しいんじゃないかって。
 しかし、ディアはどうやら同じようには思ってくれなかったらしい。
「いいでしょ、無駄でも。パンケーキ美味しいし」
「僕は食べられない」
「食べたらいいじゃん」
「なんで、そんな怒ってるんだ?」
 つーん。怒ってなんかいないですぅ、なんて言って、アイはむしゃむしゃとパンケーキを雑に頬張る。コーヒーをぐびぐびと豪快に飲む。
 さっきまであれほど世界は輝いて見えて、ケーキは甘くて、心の底から楽しかったのに、急に全てが褪せたみたいだった。
 その理由が彼女には分からない。
 自分でつーんとか言うな、とディアが言い返してくることがもっと面白くない。
「つーん。つーん。つーん」
「子供か、君は」
 それから、ディアはため息を一つだけ吐いて。
「いや、子供だな。君は」
 やけに優しい声だった。
 同時に、もふんとしたぬいぐるみの腕の先が少女の唇に触れた。
 キス、とかそういう甘ーいあれこれではない。
 口周りのソースを拭ってもらっただけ。
「ほら、じっとしてろ」
「むぐっ。ありがと」
「別に感謝されるいわれはないな。君がそんなんだと、一緒にいる僕の品格まで疑われちゃうからやっただけ」
 たったそれだけで、さっきまでアイが抱いていた全ての感情が氷解していった。
 世界は色を取り戻し、ケーキはちゃんと甘くて、心がきゅうんと温かくなった。
「そうだっ。いいこと、思いついちゃった」
「わざと口周りを汚すなよ。次はもう拭いてやらないからな」
 ディアの忠告に、アイは目を丸くしつつ驚いて。
「ど、どうして分かったの?」
「君は単純だから」
「こういうのって、相思相愛っていうんだっけ?」
「違う」
「以心伝心?」
「それも違う」
「まあ、言葉なんてなんだっていっか。えへへへ。ディアがあたしのことを分かってくれて嬉しい」
 心から思わず溢れてしまった、アイの本音。
「たまにはこんな時間もいいね」
「ふん」
 もう一度、『無駄だ』と言われることも覚悟していたアイだったけれど、そんな想像はあっさり裏切られた。
「……たまになら、いいかもな」
「うんっ‼」
 今度のアイは満面の笑みだ。
 ニマニマと頬がとろけて、零れてしまいそう。
 その時だった。
 アイの視界の端に、一人の少女が飛び込んできた。
 年のころは、まだ十歳にも至ってないだろう。もっと幼い。聡明そうな瞳をしていて、腰にかかるくらいの長い黒髪が印象的だった。
 少女はテラス席に座るいろんな人に「絵本、読んで」とせがんでるようだ。
 その光景自体が異常だったが、全ての人が少女を無視している姿がその異様さを補強してしまっている。
 まるで、誰もが少女の存在に気付いていないかのよう。
 否。きっと、見えていない。
「これはあたしの出番かな」
 アイには神様から与えられたお役目がある。死者の未練を取り除き、その魂を天上へ送ってあげるという天使としての役目が。
 しかし、ディアは首を横に振った。
「やめておけ」
「え?」
「あれは違う。君の管轄外の仕事だ」
 一瞬だけディアの言葉にアイが気を取られているうちに、少女の姿はもうテラス席のどこにも見当たらなくなっていた。

   

 それから、数日後。
 一目でかなりの年月を経たことが分かる家の座敷で、アイは「ほけー」っとしていた。
 いつもなら『その間抜け面はどうかした方がいい』なんてディアお得意の嫌味が飛んできそうなものだが、珍しいことに相棒は黙っていて。
 どうやら、ただのぬいぐるみのふりをすることに徹するつもりらしい。
「ごめんねぇ、こんなものしかなくて」
 やがて奥の部屋の戸が開き、やってきた老婆が持っていたのは緑茶ときんとん。
「本当はもっと若い子が喜んでくれるケーキとかがあればいいんやけど。あいにく、一人暮らしなもんでねぇ。すぐに出せるのが、こんなんしかないんよ」
「これって、苦いです?」
 じいっときんとんを見つめるアイである。
「今の時代だと和菓子を食べたことない子もいるんやねぇ。大丈夫。ちゃあんと甘いよ」
「嬉しい。甘いのは大好きなんです」
 ニパッと太陽のようにアイが笑みを浮かべると、釣られるように老婆も笑った。
 事の発端は、一時間ほど前。
 チラチラと桜舞うアスファルトの上で、たくさんの荷物を持った老婆にアイは出会った。お人よしの彼女は、考えるより先に『手伝いますよ』と手を差し出したのである。
 それからせっせと老婆の家まで一時間近くをかけて荷物を運んだところ、『お礼をさせてほしい』との申し出を受けて、家にあがらせてもらい今に至るというわけだった。
 家の中は外観から受ける印象と同じく、たくさんの時間が醸す独特の匂いでいっぱいだった。甘く、どこか懐かしい。心に触れる香りというか。
 これ、おいひいです、ときんとんをパクつきながら、人の生活に興味津々な天使は尋ねた。
「この家には、たくさんの本があるんですね」
「全部、絵本だけどねぇ」
「絵本? あ、知ってます。確か、漫画とちょっと違う奴ですよね」
「わたしの息子が絵本作家でね。出版した本をいつも送ってきてくれるんよ。興味あるなら、何冊か持っていくかい? まあ、あんたにはもう退屈な話ばかりかもしれんけど」
「いいんですか?」
「好きなのを選んでいきんさい」
「わ~い。ありがとうございます」
 喜んだアイは悩みに悩んで、天使のイラストが表紙に描かれた一冊を選んだ。
 もっとたくさん持っていってもいい、と言われたが、あまりに多すぎるとディアが面倒がって読み聞かせを最初から拒否してくる可能性があるから、とそんな思惑を含めての一冊だけ。
 アイはまだ文字があまり読めないので、こういう時にはディアに頼ることが多いのだった。
 その後、アイと老婆は縁側に並んで話をしたりして、春の美しさをたっぷり楽しんだ。
 部屋の中を土足で走っていく空気が、光の角度が変わることで青から赤へ変化していく。伸びる影の輪郭も曖昧になって、やがて夜という一層強大な闇が全てを呑み込んでしまうだろう。
 こうしていると、掴みどころのないはずの時間というなにかに触れているみたいだった。
「おい、そろそろ行くぞ。いい加減、うんざりだ」
 ディアの我慢が限界に達して密かにそう口にした時、アイはぼりぼりと煎餅を噛んで、再放送されていたアニメ映画を熱心に見ていた。
 幼い少女が神様の国に迷い込んで、銭湯で働いていくというストーリー。 
 画面の中では、やたらと体の大きな赤ちゃんが駄々をこねている。
 赤ちゃんと同じように、アイもまた唇を尖らせて。
「え~。今、いいところなのに」
「君の役割は、ここでテレビを見ながら煎餅を齧ることじゃないだろうに」
「もしかして、新しい気配を感じたとか?」
 ああ、とディアが神妙に頷くとすぐにアイは立ちあがった。
 悪魔である彼は、死んでしまった人たちの気配を感じることができるのだった。
「おばーちゃん。あたし、そろそろ行きます」
「おや、そうかい」
「ごちそー様でした。あと、絵本もありがとうございました」
「こっちこそ、ありがとうねぇ。久しぶりに賑やかで楽しかったよ」
 ばいば~い、と外まで見送ってくれた老婆に何度も何度も手を振るアイ。
 普段は、さよならの際に泣いてばかりいる泣き虫天使。けれど彼女の長い長い出会いと別れの旅の途中には、こんな風に笑顔で終わる別れも稀にある。
「さて、死者はどこかな?」
 あっち? とアイは適当に指の先を伸ばしながらディアに尋ねて。
「ああ。あれは嘘だ」
「なんでそんな嘘を吐くのっ‼」
 否、今回はアイの怒号がピリオドの代わりになったけれど。

   

 そんな風に、アイたちは旅を続けていく。
 町から町へ。
 様々な色や形をした、二つと同じものはない出会いと別れを繰り返して。
 ごおおおぉぉぉっとすごく大きな音がして、アイは頭上を見上げた。機械でできた鳥が、白い尾を引きながら空の青を切り裂くように飛んでいた。
 飛行機という乗り物は、羽を持たない人という生物に、空を泳ぐ夢を見せる。
 翼を失ったことに思うところはあるけれど、アイはでも、こうして地面を歩いていくのも嫌いじゃない。
 大地を踏みしめることでしか見えない景色というものが、確かにあるからだ。
 空を飛んでばかりいては気付けなかった、美しいものたち。
 テクテクテクテクと規則正しい音を響かせ、アイは気の向くままに歩いていく。
「ねえ、ディア」
「嫌だ」
「まだなんも言ってないでしょ」
「言わなくても分かる」
 今日も今日とて、ディアはアイの腕の中だ。
 偉そうな言葉を吐いても、その威厳が保たれているのかは甚だ疑問。
 しかしそれを指摘した途端に、ディアは暴れて腕の中から逃げ出そうとすることは想像に容易いので賢い賢いアイちゃんは黙っているのです。まる。なんてアイは思っている。
「分かるなら話は早い。絵本、読んでってば」
「もう何度も嫌だと断ったはずだが?」
「それを更にあたしが断る」
 ここしばらく、アイの関心は老婆から譲り受けた絵本のことばかりだった。
 ディアに読んでもらおうと、ワクワクしていた。
 しかし、いざ読み聞かせを頼んだ途端、ディアからは拒否されてしまい。
 そんなわけで、ここ数日、二人のやり取りの内容はちっとも変わっていない。
「少し見たが、あれくらいなら頑張れば一人でも読めるだろ」
「読めない」
「胸を張って言うことかね」
「第一、絵本って誰かに読み聞かせてもらうものなんでしょ。読んでよ~」
「そんな法律はない」
「イ~ヤ~だ~。読んで読んで。ねえ、読んでぇ~。読めってぇ~」
「駄々をこねるな」
「読んでくれないと泣いちゃうぞ?」
「それ、この前見たアニメの影響か? 勝手に泣けばいい。僕は知らない」
「むう。なんでそんな意地悪するわけ? あの時も――」
 言いかけて、アイの脳裏にいつかのカフェテラスでの光景が思い浮かんだ。
 テンポよく進んでいた足も、思考と一緒に一旦停止。
「そうだよ。思い出した。ほら、前に女の子の幽霊が絵本を読んでってみんなに頼んでた時も冷たかったし。違うとか、管轄外とかブツブツ言っちゃってさ」
「あれは――」
「決めた。あの子に会いにいく」
「なにをしに?」
「誰も読んであげないなら、あたしが絵本を読んであげるの」
 そのままアイの体は機敏に回れ右をした。
 視線の先には、今まで歩いてきた道が広がっている。
「今からか? あの町からはもう随分離れたし、もしかしたら無意味になるかもしれないぞ?」
「それならそれでいいよ。大切なのは、あの子が悲しい想いをしなくて済むことだと思うし」
 それから、アイはディアをぎろりとひと睨みして。
「ディアには分かんないかもだけど、絵本を読んでもらえないのってすっごく悲しいんだから」
「まったく。君って奴はいつまでも成長しないな」
 そう呟くディアの声には、しかしもう否定するような響きはなかった。
 これは、アイによるアイの為の旅だ。
 ディアは無理くり付き合わされてるにすぎない。
 だから、旅の未来はいつも自由奔放な天使の気持ち一つで決まってしまう。
 翼はなくとも、彼女は自由で。
 二本の足で、どこへでも歩いていける。
「だからさ、ディアはあたしに絵本を読むこと」
「そこに話が戻るのか」
「あったり前でしょ。そうしたら、みんなハッピーだもん」
 行ったり来たりを繰り返しながら、二人の旅は今日も賑やかに続いていく。

   

 少し前、アイは自身に課されたお役目を一つ果たしていた。
 母親と喧嘩したまま死んでしまった少女の魂と共に、彼女の最後の願いを叶えた。梨奈と呼ばれていた少女の魂は、だからもうこの星にはいない。
 残ったものはほんの少しの寂しさと、負けないくらいの笑顔で。
 少女の義父が運転する車で、アイとディアは目的の町まで送ってもらった。
 早朝の駅前には、始発を待つ人の影がぽつぽつとあった。
「わざわざ悪かったな」
「気にするな。君たちには返せないほど大きな恩があるから」
「これから精々頑張れよ。あいつに託されたものをちゃんと守ってやれ」
 ディアが男同士で不器用な別れの挨拶を交わす一方、アイは少女の母に向かってぺこりと綺麗な形をした頭を下げていて。
 朝の光を受けて艶々と輝く髪が、柔らかに揺れる。
「ありがとうございました」
「そんな、私の方こそあなたたちのおかげで娘と最後に仲直りできたから」
「あたしのおかげなんかじゃないですよ。梨奈ちゃんが頑張っただけです」
 心からそう告げるアイの体を、娘にしたように女性はぎゅっと抱きしめた。
「それでも、あなたに出会えてよかったわ」
「えへへへ。あたしもです」
 返すようにその背中におずおずと手を伸ばし、やがてアイも指の置き場所を見つける。
 温かくて、柔らかくて、多分、春の陽だまりと同じ匂いがした。
 これが、梨奈という女の子が最後に守ったものだった。
 彼女はもう地球にいないけど、それでも彼女が愛した明日はこの星で確かに続いていく。
 ぶおんと煙をまき散らし発進した古いアメ車が段々遠くなって、小さくなって、完全に見えなくなるまで「ばいば~い」とアイは細い腕をぶんぶん振り続けた。
 その顔には、梨奈が最後に母に見せたものと同じような笑顔があった。
「じゃあ、あたしたちも行こうか」
「どこにだよ?」
「絵本の女の子に会うためにここまで戻ってきたんでしょ? ほらほら、探して」
「無理だ」
 さっきまでの清々しい表情から一転、顔を曇らせるアイである。
「どして? 反抗期?」
「そんなんじゃない。あれは違うって前に言っただろ? 僕にあの子は見つけられない」
「じゃあ、どうすればいいわけ?」
「知らないよ。会いたいなら地道に探せ」
 そう口にしたディアは一度、言葉を切って。
「その前に、どうやら本業のお客様がいるらしいがな」
「ほえ?」
「もうすぐ死を迎える魂が近くにいる。こっちだ」
 ディアがアイを引き連れやってきたのは、駅から少し離れた場所にある市民病院だった。
 ロビーには、診察時間前だというのに順番待ちの人で溢れている。
 アイは受け付けをせずに、その人ごみに紛れるように長椅子に腰かけた。  
 流石に市民病院なんかの広いロビーだと、個人経営の小さなクリニックとは違い薬品の匂いはあまりしなかった。
 ぷらんぷらん、と足を揺らす。
 面会時間にはまだ早い。
 病院には当たり前だけど、たくさんの患者がいた。
 比較的症状の軽い人もいる一方、すごく重い病気を抱えたまま僅かな希望だけを持って治療に励む人もいたり。
 あるいはもう希望さえ持てず、ただ最後の時を待つだけの人も。
 そんなわけでアイとディアの旅は病院に寄る確率がかなり高く、すっかり慣れたものである。
 日が高くなるにつれ、看護師なんかの慌ただしい足音が増えていった。
 誰も見ていないただ流されているだけの朝のニュースに唯一釘付けなのは、もちろんアイ。
 彼女は人の世界に、いつだって興味津々だから。
 未来の天気を予想できるなんてすごいなぁ、なんてぽけーっと思っている。
 そんな時だった。
「君は運がいいな」
 人の多い場所ではマナーモードを基本スタンスとしているディアが小さく声を上げた。
「ど~ゆ~こと?」
「探し人が見つかったよ」
 ディアの視線の先には、いつか見た黒くて長い髪。利発そうな瞳。きゅっと宝物みたいに古い絵本を胸の前で抱えている少女の姿。
 きょろきょろと視線を動かし、てててと薄暗い廊下の向こうへ走っていく。
「あっ‼ あの子」
「追いかけるのは後にしろ。居場所はここで間違いないだろうから慌てる必要もないし」
 思わずあげたお尻をもう一度長椅子に戻したアイは、訳知り顔をするディアに「そろそろちゃんと説明してね」と詰めよるのだった。

   

 大道寺だいどうじ玲愛れあは、長い長いとても長い夢を見ていた。
 ひどく怖い夢だった。
 誰も玲愛が傍にいることに気付かず無視を続け、まるで世界にひとりぼっちにされてしまったかのよう。
 悲しくて、寂しくて、でも、自分ではどうすることもできなくて。
 そんな時間がどれだけ続いただろう。
 ある日、空から優しい声が降ってきた。

   

 深い深い森に迷い込んだ女の子。
 帰る道が分からなくて、泣いています。
 めそめそ、べそべそ。
 けれども森には誰もいなくて、だから彼女の泣き声はどこにも届きません。
 めそめそ、べそべそ。
 女の子は森が海になっちゃうんじゃないかと思うほど泣き続けました。 
 めそめそ、べそべそ。
 そうしてずっと泣き続けていたところ、女の子は一人の少女に出会いました。
 白い髪とピンクのほっぺがとても可愛いらしい子でした。
 嬉しくて嬉しくて、ようやく女の子は泣くのをやめました。
 白い少女は、涙を拭う女の子に尋ねます。
「こんなところでどうしたの?」
「帰る道が分からないの。迷子になっちゃったの」
「そうなんだ。わたしがあなたのおうちまで送ってあげる。さあ、いきましょう」
「駄目よ。この森は広くて深いもの。もっと奥にいったら、ここにすら戻れなくなっちゃう」
「じゃあ、空から帰ればいいのよ。簡単なことじゃない」
 そう言って少女が得意げに笑うと、その背中に透明な翼が広がりました。
 彼女はなんと天使だったのです。
 強い風が吹いて、天使の少女は女の子を抱えて空を舞います。
 空から見た世界は、森よりももっとずっと広くて綺麗でした。
 そして、ようやく女の子は自分のおうちに帰ることができたのでした。

   

 物語が終わるのと同時に、玲愛はゆっくり目を開けた。
 光が水滴のように彼女の瞳に落ちて弾けて、ぽちゃん。満ちていく。
 光はやがて輪郭を顕わにし、知らない天井になっていった。
 その天井しかない視界の端から、とても綺麗な女の子がにゅっと顔を出す。
 まるで、さっきまで聞いていた物語に出てくる天使のよう。
 ただ、目の前の少女の髪は白じゃなくて黒だけど。
 その背中に、翼だってないけれど。
 玲愛は体を動かそうと試みたけれど、上手くいかなかった。
 体のあちこちが重いし、なんというか違和感がある。
「あれ? どうして?」
「無理に動かない方がいいよ。ええっと、名前は玲愛ちゃんでいいんだよね?」
「はい、そうです」
「あたしは天使のアイ。で、こっちのうさぎが悪魔のディア。よろしくね。それで話を戻すけど、玲愛ちゃんはずっと眠っていたらしいから、いきなり体を動かすのは難しいと思う」
 それでも玲愛がなんとか首だけ動かすと、窓ガラスに知っているような知らない顔をした女の子の顔が映っていた。玲愛のお姉ちゃんと同じくらいだろうか。
 体からはいくつもの管が伸びている。
 玲愛が瞬きするのと同時に、窓の少女も同じく瞬きをした。
 玲愛が口を動かすと、少女の唇も動いた。
 彼女はとても玲愛の物まねが上手だった。
「もしかして、これがわたしなの?」
 その姿は、とても五歳には見えない。
 玲愛はまだ、五歳のはずなのに。
 それに、腕も顔もやけにやせ細っているし。
 混乱して、混乱しすぎたから逆に冷静になれた。
 少しだけ現実逃避をしたのかもしれない。
「アイさん。聞きたいことがあるんですけど」
「だよね。でも、あたしもあんまり難しいことは分からないの。ごめんね」「大丈夫です。全然、難しいことじゃないから。あのね。わたし、ずっと一人だったんです。誰もわたしの声を聞いてくれなくて、寂しくて。そうしたら、アイさんの声が空から聞こえてきて。アイさんが、わたしを助けてくれたんですか?」
「ううん。あたしはただ頼まれたからこの絵本を読んだだけ」
 そうして、アイは自分の顔の横に天使のイラストが描かれた絵本を持ちあげた。
「頼まれたって、誰に?」
「玲愛ちゃんに」
「わたし?」
「玲愛ちゃんの体は交通事故に遭ってずっと眠ってたの。だけど、魂は体を抜け出して絵本を読んでくれる誰かを探してた。それをあたしたちが見つけて、ここにやってきたってわけ」
 だから、ディアは玲愛の魂を『アイの管轄ではない』と告げたのだった。
 死霊ではなく、生霊だから。
 悪魔であるディアは死の匂いを嗅ぎつけることはできるけれど、死を纏っていない生者の魂についてはその所在を知る術がなかった。
「なんとなく思い出してきた。わたし、お気に入りだった絵本を帰ってからママに読んでもらおうと楽しみにしてたんだ」
「これかな?」
 棚の上に、随分古い絵本が一冊。
「そう、それ」
「ごめんね。違う本を読んじゃったね」
「ううん。さっきのお話、すごく好き。ねえ、アイさん。よかったら、その絵本とわたしの絵本、交換してくれませんか?」
 少し悩んだ末、アイは「いいよ」と答えた。
 この少女なら老婆から譲り受けた絵本を大切にしてくれるだろうと思ったし、アイもまた新しい物語に興味があったから。
 天使の絵本を棚に置き、代わりにアイは別の絵本を手に入れる。
 深い森と綺麗なお姫様が描かれた表紙が印象的だった。
 本のタイトルは『眠り姫』。
「おい、アイ。そろそろ医者を呼んでやれ。検査もしないとまずいだろう」
「ああ、だね。それでお医者さんが来ちゃう前にとっとと逃げちゃわないと。あたし、怒られるの嫌いだもん」
「待って」
 ナースコールを押して病室から出ていこうとするアイとディアを、玲愛は呼び止めた。
 彼女たちは不思議そうな顔をして、玲愛の方を振り向いた。
「絵本を読んでくれて、ありがとう。優しい天使さん」
 どういたしまして、と心優しい天使は笑って応えた。

   

 これは翼を失った天使が〝寂しさの理由〟を探す旅。
 これは天使が犯した罪と罰、悪魔の抱える秘密の話。
 そして、わたしとあなたのどこにでもある出会いと別れの物語です。

                            Book – fin.

 

 あとがき、という名の宣伝。

 まず、ここまで読んでくれたあなたに最大級の感謝を。
 ありがとうございました。
 先日、ガガガ文庫さんより『天使の胸に、さよならの花束を ~余命マイナスなわたしが死ぬまでにしたい1つのこと~』という小説が発売されました。
 死者が残した最後の未練を、天使と悪魔が一緒になって晴らしていくというオムニバスストーリーです。
 今、毎日のようにたくさんの悲しいニュースが入ってきます。
 こんな時代だからこそ、読んでほしいんです。
 さよならは悲しい響きだけど、でも、きっとそれだけじゃなくて。
 きちんとお別れできた後には、綺麗な笑顔が咲くよねってお話だから。
 だから、悲しいけれど悲しいだけじゃない一冊を目指しました。

 5つの短編と同時に紡がれる天使と悪魔の一つの物語。
 合計、6つの物語が収録されています。
 もし、この短編を読んで興味を持たれた方は手に取っていただけると幸いです。
 この短編は本には入っておりませんが、本の中に入っているのはこれ以上の物語たちばかりだと思っています。

 天使が翼を失ったのは、どうしてなのか。
 アイが犯した罪と罰とは?
 悪魔のディアはどうして天使のアイと一緒にいるのか。
 アイとディアの二人はどうやって死者の未練を晴らしていくのか。
 五つの短編が紡がれ繋がった先で、最後にアイが手にしたものとは?
 この短編では語り切れない、たくさんの物語があなたを待っています。

 どうか、この出会いと別れの物語で、もう一度あなたと出会えますように。
 そして、その出会いの先であなたが笑っていますように。
 ささやかながら、願っています。

2024年 夏の終わりの片隅に、そっと腰を下ろしながら   葉月 文

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