信じるという事は自分を見失うという事

信じるとは、人の言葉を鵜呑みにするという事。

信じるのではなく、人心と記しシンジルとする。

人の心をシンジル事で、言動の正否を貴方なりに考え判断すれば、貴方にとっての、その時点での答えは見つかる。それは正しさとか間違いではなく、その時点での貴方を導くヒントに過ぎないが、それはそれでよい。結果として貴方が在るべき姿、本来の貴方の在り方へと繋がってゆく。

そして途中で逃げない事、逃げたいと思った時、それは貴方が成長できるかどうかの時、しかし必ず乗り越えるという選択をする必要もない。未熟な状態では適わない事もある。そういう場合は逃げずに保留にする。取り合えず今は捨てずに置いておく。いずれ乗り越えられる時がくれば必ず乗り越えられる。

逃げると言う選択は貴方に負い目を付与する。付与された負い目は貴方の心身を蝕む。無理なときは逃げていいという甘い言葉、そういう無責任な言葉に惑わされない様に気をつける心構えが大事。

ここに記した事は、部分的なことに過ぎず、ここに記した事だけ出来ても上手くはいかない。しかし、ここに記した事の本質を見極められる様になれば、ここに記した事だけでも全てが解る様になる。成長とは、これらが解る様になってくる事をいう。

これらを覚えても、それは成長とはいわず、単に手に刃を持ったに状態に過ぎない。その刃を如何に使うかを、自分自身で良き判断が出来る様に成る事を成長するという。

機械的な言葉で記したが、感情を乗り越え、しかし感情を無視する事無く、正確な判断が出来なければ、本当の意味での平和、真の平和が成る事はない。

世の中では、平和だ平等だという上辺だけの言葉が横行し、その上っ面だけの虚しい音に反応し、様々な不協和音が鳴り響いている。平和や平等という言葉を悪用せず、本当の意味での平和や平等を理解し目指さなくては、歴史は同じ様な事を繰り返す。

貴方の中に在る、その言葉はマコトですか。

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