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【美術館レポート】「大地に耳をすます 気配と手ざわり」東京都美術館

 

 デ・キリコ展のついでに行ったら、意想外によかった。

 デ・キリコ展を見終えた折、出てすぐ左手で別の展示をやっている。
 しかも、デ・キリコ展の半券を提示すると300円引きになるそう。
 ほんの興味から立ち寄ってみた。

「大地に耳をすます 気配と手ざわり」

 と題された企画展で、自然と関わりながら創作を続ける国内作家5人の作品が展示されているらしい。

 全体の印象

 初めに全体の印象を軽く述べておくと……そうだな。
「自然との関わり」というところに共通点を持ちながらも、それぞれの作家が独自の方法で表現しているので、単純に見ていて飽きない展示だった。

 しかし、自然を作品化するというのは、案外難しい。
 矛盾を孕む、と言ってもいいかもしれない。

 自然というものはすでにそこにあり、またそこにあるというだけで完全無欠に美しい。それを敢えて作品化するというのは、ともすると矮小化にもなりえるだろうし、作家の恣意を通った結果自然が却って殺がれるということも起こりうる。

 自然の代替物、相似物を展示するだけでは作品とは言えないだろうし、他方で自然そのものを持ち込むことは難しくもある。

 初めに述べておくと、個人的な本展示の白眉は倉科光子の植物画だった。これについては後述する。

 そうだな。5人なのでそれぞれについて書いていこうか。

 川村喜一

 写真家・美術家。知床の自然等を写し取った写真、文章、骨や植物などを用いた造形物、などが展示スペースに並べてある。それら全体で一つの作品、ということらしい。

 写真作品は、ライトに照らされるヒグマや、愛犬の狩りのシーンなど知床の自然と作家の生活にまつわる印象的なシーン。なのだが、まず気になったのはその媒体で、なにやら毛足の短いカーペットのようなもの? に印刷? されている(これについては説明を見つけることができなかった)。

 展示品を吊っているコード類なども登山などで用いられるパラコードのようなものが使われており、「ゴミを出さない」ということに留意しているらしい。細かいところだが、案外このコードは全体の印象にまとまりを与えていたように思われる。

 文章の書いた紙も壁に貼り付けられたり、天井から吊られたりしている。そこには、上記した「自然を作品化することの難しさ」といった趣旨の内容が記されていたように記憶しているが定かではない。
 そして犬、かわいい。

 ふるさかはるか

 美術家・木版画家。四角四面に製材されていない、木の形の残る幅広板に直接掘り込み版木とする版画は印象的。
 描かれているものを区切る画面そのものが木材、というのは面白い。

 木材フェチの自分にとって特に気になった作品は、特定の図像を掘り込まず木目そのものを活かした大作で、冬の木立そのものが版画で表現されている。木目というのは版画にしても割とくっきり表現されるものらしい。

註:部分。引きで観るともっと大きいです。実際に観ることをお勧めします。

 これに関しては制作の様子が動画で流されている。作家自らが漆を採ったり、藍から染料を作ったりする様子は圧巻。動画を見る前に作品を見、一目で惹かれたのではあるが、動画を見てからふたたび作品を見るとまた感慨が深まる。
 作品を展示するだけならその手間は鑑賞者には見えないのだから、染料まで自作する必要は本来ない。
 敢えてそこまで取り組むというところに作家のこだわりを感じる。

 ミロコマチコ

 画家・絵本作家。奄美大島在住で、絵画が主な展示。この展示にも動画作品があり、作家が奄美の森のなか、大きな画布に向かって絵画制作に臨む様子が描かれている。

 素朴な画風で力強さを感じるが、自分の琴線には触れなかった。
 こういった作品を評価する文脈が自分にはない、のかもしれない。

 倉科光子

 画家。東日本大震災の被災地に生える植物を描いた絵画が展示されている。
 一目見て圧巻だった。

 とにかく細密に描かれている。植物の葉の一枚一枚から、砂利粒の一つ一つに至るまで。この細部の凝視と、それを描く画力、執念がすばらしい。
 細密に、ありのまま描かれており、そこに衒いはない。
 逆に言うと、作家の恣意が入る余地は少ないように思われる。
 
 描出される植物も、(なかには珍しいものもあるが)特別華美なわけでもなく、被災地に根を下ろした野の草である。

 しかしなぜだか、自分は感動を禁じ得なかった。
 なぜだろう。

 恐らく、絵の元となった現実の植物の生えている場所に立てば、然もない光景なのだろう。作品のなかには、工事現場の砂利道に根を張る植物などの絵もある。しかしどの絵画も、そうした瑣末な光景を描いたものであるのにも関わらず、静謐で、神聖な気配をすらまとっている。

 単純な直観として、これは写真では実現できないように思われる。どれほど手練れの写真家が写したところで、それら絵画に付与された神聖な気配は表現できないだろう。

 それはしかし、本来現実にはない「神聖さ」を、作家の恣意により付加したものなのか。

 ――違う、と言いたくなる。

 むしろ、われわれが普段見向きもしない路傍の草に本来的に秘められた聖性を、作家の感性が掬い上げてそこに提示している、という感がある。

 だから自分は、通常人が「瑣末な光景」として顧みないものを作家が「描くべきもの」と見なし、そして精力を傾け描き出したというその事実に感動を覚えたのだろう。

「神は細部に宿る」
 という言葉を思い出さずにはいられない。

 榎本裕一

 画家。本展示では北海道、根室の冬の景色を中心とした作品が展示されている。

 印象深かったのは動画だった。根室の四季を写した作品で、人跡の薄い自然豊かな情景がスライドショーで流れる。これが単純に景色として良い。

 冬の凍った水面? を写したアルミパネルの展示が多く並んでいたが、どうなんだろう。分厚いアルミパネルに凍った水面を写すことで氷の冷たさや厚みを表現した、とは言えるが、結局絵の脇から見なければアルミパネルであることは分からないので効果は薄いように思われる。

 一見白黒の画面だが、よく見ると黒の部分に木立が描かれている、という絵画がありこれも面白かった。面白かったのだが、(上記したアルミパネルの作品同様)コンセプトが先行している感があり、自然という文脈でとらえたとき差し迫ったものがあるかというと、個人的にはあまり感じられなかった。

 むしろ動画のほうが直接的に自然的で、特に半ば朽ちかけた杭などはとてもよかった。朽ちかけた杭を被写体として捉える作家の眼がまずよい。


 結びに

 自然は自然であるだけですでに美しい。
 では自然は芸術だろうか? 

 個人的には、月並みなもの、見慣れたもの、習慣化したもの、といった固着した観念を突き破ってくれるものを芸術と呼びたくなる。その意味では自然――を含めたあらゆる形象は、芸術として観ることが常に可能だろう。

 つまりは「観るものの認識に拠る」のであり、創作とは創作者の「観方の提示」であると言える。

 創作者が世界をどのように観るのか、その提示が作品であり、そこに作家性が現れる。だから例えば、川原から小石を一つ拾ってくるだけでも、立派な創作でありうる。

 こと自然が相手だと、実物に勝ることなどないのではないか、と思うし、それは一面の真実ではあるだろう。しかし実物にも増して感興の深い作品というものがありうることを、今回は知ることができて良かった。

 面白く鑑賞した。


開催情報

2024年7月20日(土)~10月9日(水)
東京都美術館

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