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読書日記 2023/11/9

 日増しに「ひどい」なんて言葉では言い表せないほどガザは凄惨な状況になっている。その被害を他の戦争や紛争と比べてはいけないけれど、ケタが違いすぎる。タガが外れすぎている。
 白人が差別感情をむき出しにすると、ここまで出来るのか、国際社会の白人指導者たちはこれを止めることが出来ないのか、という絶望的な気持ちである。
 そんな中、過去スナック社会科にお誘いするもタイミングが合わず、9/15のイベントでやっとお会いすることが出来た金耿昊(キム・キョンホ)さんにいただいた著書「積み重なる貧困と差別」を先月は読んでいた。
 「在日特権」という国内の差別主義者が使う言葉がある。果たして、そんなものがあるのだろうか?という疑問を出発点に、在日コリアンの生活保護の受給実態を戦前から戦後、現在までの時系列とその時々の受給者数や人口動態などの具体的な数字という客観的資料と、日本政府の外国人や困窮者に対する福祉政策や移民政策(戦後GHQ占領期はGHQの福祉政策)や在日コリアンの中での運動体や諸団体の遍歴(最初から今のような朝連、民団というふたつがあったわけではない)、生活者の声というナラティブとあわせ、ぐうの音も出ないほど事実と実態を読むものに叩きつける内容になっている。
 もちろん「在日特権」なんて、ハナから存在しないことは知っていた。日本の植民地政策と皇民化教育で土地や生業だけでなく言葉を奪われ、名前を奪われ、戦地に送られたり、タコ部屋に送られて働かされたりした挙げ句、日本敗戦とその後のサンフランシスコ講和条約により「日本人にさせられた」ひとたちが「外国人にさせられた」ことも知っていた。
 また、日本が負けたことによって朝鮮半島は日本の手を離れ、戦勝国の東側勢力と西側勢力の配下に置かれ、分断させられただけではなく朝鮮戦争に発展し、今も終わっていないこと(1953年に休戦のまま)、日本のせいと言えば日本のせいで起きたものでもある朝鮮戦争で日本が経済特需を受けたことも知っていた。
 が、そんな「知っていた」なんて、ほんの一部であることを思い知らされるものだった。戦後、日本人も困窮状態にある人が大半だったが、高度成長期を迎え徐々に脱していく者が増えるものの、在日コリアンには民族差別に加えて、就職差別もあり、賃労働者になることも難しく、ならば自営で糊口をしのごうとすれば、違法と取り上げられ、規制されてきたことも書かれている。「困窮状態を脱する努力をしなかったから貧困になった」のではなく、「貧困にさせられていた」としかいえないものであった。
 その、留め置かれる貧困状態が帰国事業へと繋がっていくのだけども、その帰国事業に関してもしらないことばかりであった。同じ頃、まだ日本は口減らしをするように海外に移民をさせていた時代にも重なる。この国の政治はずっと問題を外部化させることや切断することで生きながらえてきたのだと改めて思った。

 この「貧困状態にさせられていること」と「問題を外部化させること(当人たちの問題にさせること)」、これが重なることで、より見えさせられなくすること。これはパレスチナの問題にも通じると思った。
 10/7以降、まったく彼の地の情報を得たり、考えるに役に立たない日本メディアと違い、コリアンメディアは鋭い記事や論客を呼ぶ記事を立て続けに出している。そこも問題を外部化してきた日本と、自分の問題と捉えてきた韓国メディアの大きな差と過去からの学びの違いなのだと思う。
 あと、日本メディアは正面から天皇制を取り上げられない、ということは大きいと思う。天皇制を外して過去の植民地政策や戦争の歴史に向き合えるはずもない。

  この「積み重なる貧困と差別」のあとに、先日の日記でも書いた稲垣先生の論文を読んで、先週は藤井誠二さんの「沖縄アンダーグラウンド(文庫版)」を読み返し、今週は「現代思想2020年10月臨時増刊号 総特集:ブラック・ライヴズ・マター」を読み返している。

 一つ一つの悲劇や一つ一つの事件、どこか遠い場所や遠い過去に起きた特別な話、という単体で存在するものではなく、複合差別的な状況に置いておきながら、それを当人たちに非があるかのように転嫁すること、そして外部において脅威とみなし(または脅威を作り出し)、脅威に対処という体で警察や軍隊などが市民に暴力を奮うことをすすめること、そこに予算がつくこと、全てが繋がっている。そしてそこにはレイシズムがべったりと貼り付いている。

 海外に関しては研究も盛んで過去から今に至る経緯も無料でいつでも学べることやアクセスできる情報は自分から取りに行こうとすれば溢れている。そして、そういったことを国内で国内のことを踏まえたもの、となると数もアクセス手段も限られる。そして、その手間を惜しむ人や安易に答えを求める人には差別主義者が語る捏造されたファンタジーや陰謀論者が語る陰謀論が魅力的なんだろうと思う。Xがツイッターだった頃はそういうものに反応して通報したり、晒したりしていたけど、もう馬鹿馬鹿しいからそれやめない?という気持ちになっているし、その安易さに魅力を感じない人も増えてきた気がする。元々差別主義者や陰謀論者の絶対数は多くなかったであろうし。
 もういい加減、そういった安易さが何も産まないどころか、差別や不幸の再生産にしかならないことに気付いている。

 私は頭が悪くて「なるほど、なるほど」と自分の頭の中で繋ぎ合わせて興奮しながら、それを言語化することが大変不得手である。だからスナック社会科をやっているという部分もあるのだけど、もっと言語化の手前で、そのものごと自体を自分に身体化させるために勉強会や研究会みたいなものをやりたいなあと考えている。

 目の前の理不尽に声を上げること+その理不尽の背景や歴史を長い射程で考えていくこと+それぞれの日々の生活を営むこと
この3つが当たり前に生活に存在させられるようにするには。実はネタは出尽くしていて、あとは行動だけではないかとも思う。弾は揃ってて撃つだけ、というか。そのためにも考える言葉と身体を同期させることをもっと意識したい。

寝ます。




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