その「真の名」について考察されている箇所を引用してみたい。
こうやって書いてしまうと「なーんだ」と言われかねないのだが、当人にとって、名前が判明するまでは、なーんだどころか、一大事なのである。
人は、真の名を直視する勇気をもたないことが多い。
その勇気がないひとたちに、社会はとてもやさしい。
これは、ありとあらゆる商売というものの根底に流れる、力の世界のセオリーとも言えるかもしれない。
社会は、愛を知らない人が、それなりに、愛に似たもので自分をごまかして楽しく生きるために、愛から逃げ回るためにはどんなことでもやる、という人たちが一丸となってつくりあげた幻想だと私は思っている。
社会は、愛の圏外で生きている人に、生ぬるい優しさで包んでくれる。しかし、それは、気休めにはなっても、決してほんとうに満足はさせてくれない。なぜなら、ほんとうに満足すれば、経済へ奉仕する共依存から脱してしまうからだ。
この依存関係へ奉仕してくれるひとたちだけが、正常だと定義している社会。そんな社会に「あなたは健康です」と言われたいか。
そんな禅問答みたいなことを時々考えてしまう。