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この映画を見て、大切なあの頃の自分と再開できた人は幸いなる哉。ー「泳ぎすぎた夜」

誰しもの記憶のなかには、まだ幼かった頃の自分がいて、あらゆるものに触れ、見たもの、聴いた音が、その先の自分の世界を形作っていったことを知っている。大切な思い出。その数々。成長して大人になるにつれて彼方へと亡くしていくそんな記憶を、この映画はゆっくりと思い出させてくれる。

学校への行く道を外れ、父の働く水産市場へと向かうこの少年の冒険譚からは、今の時代を生きる私たちは多くのことを学び直すだろう。すでに形作られたものや情報にのみ触れ、思考停止に陥りがちな人間の感性に届くものがある。そのために、映画は極力音を排し、台詞を排し、カメラを動かすことなく、少年の一挙手一投足を丁寧に捉えていく。

主人公を演じる古川鳳羅君は役者ではない。彼の周囲にいる両親や姉は実在する鳳羅君の家族であるわけだが、この映画はドキュメンタリでもなければ、フィクショナルな劇映画でもない。もしくはそのどちらでもあり、両者の曖昧な境界線を、ゆらゆらと進んでいく。

少年が経験したたった1日の出来事のなかで、観客は自身の幼少期の記憶と、再び巡り逢うこととなるだろう。この映画は見たもの、誰しもとつながる映画だ。

この作品は日本人の五十嵐耕平監督と、フランス人のダミアン・マニヴェル監督の共同作品だ。互いにまだ若く、これから先インターナショナルな舞台で活躍していくであろう才能と力を感じさせる。

五十嵐監督は本作の制作について、大人のスケジュールに合わせて映画の撮影を進めていくのではなく、鳳羅君の予定や、気持ち、状態に合わせて撮影をしていった、そうしなければ出来なかった、という趣旨の発言をしている。これは徹底したプロフェッショナルな管理体制のもとでの、ある意味子どもの表現力を搾取して作られた大人のための映画製作とは対極に存在する映画だ。現に主演の鳳羅君は、撮影の現場では監督たちの意図から外れ、カメラのフレームを飛び出して自由に動き回り、現場を困惑させたという。しかし製作スタッフたちは鳳羅君の言動を新たなアイデアとして借り受け、作品に昇華させていった。子どもの動きを淡々と見せていく映画ではあるが、決して単純なつくりとはいえないのが本作の魅力だ。

カメラのフレームサイズは4:3のスタンダードサイズと狭く(これは絵本のイメージを想起させるためだという)、撮影中のカメラもほとんど動かすことなく、フィックスで撮られた映像が続く。動き回る子どもを捉えるのであれば、カメラもそれを追いかけ、被写体に迫っていく方がダイナミックな映像に仕上がるだろう。固定された一つのフレームのなかで少年の挙動を捉えていく方がはるかに困難を要するはずだ(ダミアンも本作のなかで一番撮影が簡単だったのは犬のシーンだと明かしている)。

この限られた非常に静謐なフレームのなかで少年の姿は、降り積もった雪や、空や、二匹の犬と等しく、自然の一部としてスクリーンの上に現前する。決してプロフェッショナルな役者が見せる人工的なまでの曲線美ではなく、その結末を予測させない動物的な運動のイメージが立ち現れるのだ。

映画はまさに、少年の姿が自然の一部へと還元されていったかのように、後半では少年は眠り続け、彼を取り巻く周囲の景色だけがぐるぐると動き出していく。全てが彼の見ていた夢の景色と言えなくもないが、その夢が醸し出すファンタジー性や記憶の中の自由さ、そして子どもが動き始める軌道の流れが一体となって、この映画を観たという曖昧な現象が、確かな現実となって記憶されるのだ。


主に新作映画についてのレビューを書いています。