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相変わらず「日本語は難しい」と首を傾げているオランダ人のパートナーだが、そんな中でも彼が的確に使う言葉がある。

「アツアツ」だ。

確か、去年の春に一緒に旅を始めて最初の滞在国であるトルコ・イズミルの海沿いの道を散歩しているときに、防波堤の上に肩を並べて座ったカップルを見て、

「日本語には、気温や水の温度が高いときに使う『アツアツ』という言葉があるけど、『アツアツ』は仲良しの人たちを表現するのにも使えるんだよ」

と教えたのだったと思う。

それ以来、彼は暑いときには「アツアツネー」と言うようになった。

ギリシャの小さな島やモロッコの滞在中も「アツアツネー」は頻繁に登場し、コスタリカでは蒸し暑いときは「ムシムシ」なのだということを覚えた。(日本滞在のときはよく「ムシムシネー」と言っていた)

それだけではない、道端で仲のいいカップルを見たときや、映画で登場人物の距離が縮まるときも「アツアツネー」と言う。

そのタイミングが絶妙なのだ。

90年代にティーンエイジャーだった人はおそらく知っているであろう、(そして知らない人も多いだろうけれど)カップルを茶化す「ヒューヒュー」という言葉を使いたくなる、まさにそのときに彼は「アツアツネー」とにやける。

きっと彼に「ヒューヒュー」という言葉を教えたら、きっと的確に使いこなすだろう。

「おはよう」と「おやすみ」、「おかえり」の使い分けさえ難しいと言っていた彼が「アツアツ」と「ムシムシ」を日本語ネイティブのように使い分けることができるのはなぜか。

おそらく、言葉と身体感覚が結びついているのだろう。

暑さや蒸し暑さをからだで感じるのはもちろんだが、人の距離が縮まる様子を見たときにもわたしたちは独特の身体感覚を感じる。

「ヒューヒュー」という言葉が流行ったのも(カップルを)「見る側」に生じる、どこかこそばゆい感覚が他の人と共有できる言葉になったということが大きいのではないだろうか。

それに対して挨拶として定型化された「おはよう」や「おやすみ」、「おかえり」は言葉としては簡単に聞こえるが、日本とは異なる文化の中で育った人にとっては身体感覚とは結びつきづらいのだろう。

(彼にとっては「お」の音で始まるという共通点のインパクトの方が大きく、「同じような言葉」に聞こえるらしい」)


そんな彼が先日ふとこんなことを言った。

「日本のテレビでは、いつも画面の端っこに別の画面が出てそこにリアクションをしている人の顔が映っているよね。あれって、どんなときにどんな反応をすべきなのか見る人に常に示しているような感じがするんだ。それによって自分がどう感じているかに気づいたりそれを表現する機会が奪われてしまうんじゃないかと思う」

どうやら、ワイプと呼ばれる画面内に表示される小窓のことを言っているらしい。

嫌悪にも近いような面持ちでそう言うということは、よっぽど違和感があるのだろう。


わたしたちは小さい頃に、まずは感覚に気づきそれを表現することを覚える。

それが何かは分からないけれど、何かざわざわしたものを感じてぐずったり、不快感を感じて泣いたりする。

表情や言葉になる感情の手前には、必ず身体感覚があるのだ。

それに周囲の大人が丁寧に言葉をあてていくことで段々と自分がどんなことを感じているのか自覚し、表情や言葉で表現できるようになる。

そんな中、いつも表情や反応の「お手本」があるとどうなるか。

自分の中にある身体感覚を感じ取る前に、表情や反応をつくってしまう。
身体感覚を感じずに、そこで語られる言葉を、感想や感覚を表現する言葉としてそのままコピーしてしまう。

こうしてわたしたちは、「取るべき反応」や「話すべきこと」を身につけていく。


身体感覚と言葉が切り離されたとき、わたしたちは自分に嘘をつくことができるようになる。

悲しいのに笑い、苦しいのに大丈夫だと言うことができるようになる。

そうして、気づけば「自分」がどこにいるのか、分からなくなる。


悲しさや苦しさだけではない。

耳障りの良い言葉、見栄えのいい言葉も同じだ。

そこに身体とのつながりがなければ、どんなに言葉で表現をしても、わたしたちの心は満たされない。
むしろ、言葉を放つほどに心は空虚になっていくだろう。


身体感覚から発される言葉の中には原初的な感覚を表現するものも多い。
耳触りも見栄えも良くないけれど、確かにそこにある感覚をしっかりと感じずに何を感じて生きていくというのだろう。

身体感覚の中には言葉で表現することが難しい感覚もたくさんある。
だからこそ、その感覚を表現しようとすることに意味があるのだ。
繊細な感覚を感じ、どうにかこうにか表現しようとするプロセスそのものが、自分を大切にすることになる。


あなたは今、どのくらい身体の感覚を感じているだろうか。
身体の感覚とつながった言葉を使っているだろうか。


「いのちを生きる」ことは、身体の感覚と言葉のつながりを感じることから始まっていくのだと思う。

このページをご覧くださってありがとうございます。あなたの心の底にあるものと何かつながることがあれば嬉しいです。言葉と言葉にならないものたちに静かに向き合い続けるために、贈りものは心と体を整えることに役立てさせていただきます。