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関係にあたらしい名前を

わたしたちの体験する世界はわたしたちの使う言葉に規定されている。

たとえば感情について。

喜び、悲しみ、怒り、恐れ、歓喜、絶望…


わたしたちはさまざまな言葉を持っている。

感情の名前を知っている。

その感情が実際に存在しているのか

実は誰も分からないのに、

わたしたちはその名前を知っていることによってあたかもその感情がそこにあるかのように思う。


ではわたしたちは関係についてどんな名前を持っているだろう。

たとえば「二人」の関係について

どんな名前があるだろう。

兄弟、姉妹、親子、夫婦もしくは夫妻。

師弟、先生・生徒、上司・部下、コーチ・クライアント。

ふたりの関係の名前において、

「ふたり」は、いつもバラバラで、

それぞれが別々の役割を担っている。

その役割の多くは「ふたり」のあいだでつくられたものではなく

社会の中で規定されたものだ。


上司たるものこうあらねばならない。

親たるものこうあらねばならない。

そんなふうにつくられた役割のイメージが、

気づけば「こう生きなければならないもの」になっている。


かつて、結婚して間も無い頃、当時の夫に言われたことがあった。

「だって夫婦でしょ」

わたしはそのときに、本気でその言葉の意味が分からなかった。

きっと実際に目をまんまるくしてたと思う。

婚姻という社会的な手続きを経て突然力を持った「夫婦」という言葉。

その関係において「婦(妻)」であるわたしには何が期待され、何が課せられるのだろう。

(今思えばきっとそのとき彼は言葉の奥にもっと伝えたいことがあったのだろうけれど)


それから数年後、東京の会社に転職をするために、公務員の夫を残して福岡を離れることになった。

そのときに周囲の多くの人に「逆単身赴任」と言われた。

どうやら「単身赴任」は夫がするものらしい。

わたしはあるべき「妻」の姿をちっともまっとうせず、

それから数年後、わたしたちは離婚した。


今、オランダ人のパートナーと過ごしていて感じるのは

わたし自身の中にも社会的につくられた「夫」や「夫」(もしくは男女)の役割のイメージが染みついていたのだということ。

仕事が好きなわたしに、「じゃあ子どもができたら僕が面倒みるね」とサラリと言う彼には、どうやら、「こうあらねばならない」という役割はあまりないようだ。

(お互いに歳だから養子を迎えてもいいんじゃないかとこれまたサラリと言ったときはまた別の驚きがあった)

好きなことをひとの目を気にせず楽しんでいる彼を見ると、

つくづく「あるべき姿」というのは社会の中でつくられたものなのだと思う。

(彼も何かしらきっとオランダ社会の中にある「あるべき姿」を持っているのだろうけれど)


彼はいつも「We are team」と言う。

料理も(料理はほとんど彼がしているけれど)掃除も、拾った子猫の世話も、生理のつらさを乗り越えるのも、チームで取り組むことでそこに決まった役割はない。

得意な人が得意なことをやればいいし、不得意でも一緒なら楽しく取り組める。

そんな関係にはどんな名前がつくのだろう。

チームでもあるし、パートナーでもあるけれど、

そのどちらとも違う気もしている。

一緒に過ごす時間や上手くいかない出来事をたくさん経て、関係は変化を続けているようにも思う。

たしかに「わたし」と「あなた」がそこにいて、

たしかに「わたし」と「あなた」は違うのだけれど、

同時に、ふたつに分けることのできない「わたしたち」がここにいる。

(「分ける必要のない」と言う感覚だ)

それでも、「わたし」も「あなた」も、

どちらもそのままでここにいる。

そんな感覚だ。


言葉は便利だ。

言葉があることでわたしたちはひとに何かを伝えることができるし、

名前があることで私たちはそこにあるものを認識することができる。

しかし、その言葉がわたしたちの世界を規定する。

名前がわたしたちを決まった役割の中に閉じ込める。


でもわたしたちはいきもの。

関係もいきもの。

わたしたちも関係も変わり続ける。

あたらしい誰かが加わったら、「ふたり」の関係もまた変わるだろう。


変わらないものの方が安心だ。

だけど、変わるものあいまいなもの境界線のないものを受け入れたとき、

その関係にあたらしい名前をつけたとき、

(もしくはこれまでの名前を手放したとき)

わたしたちの命は、まぶしいほどに輝き始める。

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