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自我殺しの夢とパートナーシップの更新

明け方、随分と強い雨が降った。
コスタリカのジャングルの中で暮らしたことを思い出す。
強い雨が、木々の葉にあたり作り出す低音と高音の混じる音。

そんな音に包まれて見た夢の質感を今日もハッキリと覚えている。
確か最近も同じような夢を見た。とジャーナルを見返すと、それは昨日のことだった。
昨日のことがもう、1週間前のことのようだ。

矯正された自己が自らその矯正を破る。
そんな夢のメッセージは明確に思う。
昨日見た自我殺しとも重なるところがあるが、もう一度見たということはもっと詳しく伝えたい何かがあるのだろう。自我の中でも、矯正された自分を手放すときだと、そういうことだろうか。
思い当たることはある。それをやってみたら夢が変わるか、落ち着くか。
それで、夢のメッセージを受け取れているかは確認できるだろう。

昨日はとある物件をオンラインで内見させてもらった。
今は不動産購入を契約まで全てオンラインで行うことができるらしい。
自分が不動産業界にいたときは、永遠にFAX文化が変わらないのではないかと思ったくらいアナログで、変化がなさそうな業界だったが、少しずつなのか急激になのか、変化というのは訪れるものだ。

おそらくコロナはその大きなきっかけになっただろう。
これまですでに成り立たなくなりつつあったものが明るみに出た。
そして、変化できたものが生き残り、変化できなかったものは滅びた。

滅びることは一見悲しいことのようだけれど、他の形で生まれ変わりが起こっているはずだ。
季節は巡る。芽吹の春にも、葉が落ちる秋にも、等しく価値がある。

内見後、タイの島にいる彼と何度か話をした。

電話でのやりとりは思った以上にスムーズだ。

これまでわたしは電話口で英語で話すのがどうも苦手だった。
だいたいが何か困ったことを解決するために窓口に問い合わせをしないといけないというシチュエーションで、電話した方が早いのにと思うけれど、どうにもこうにも気が進まないのだ。
対面だと50%くらいの理解力なところが電話だとさらに20%くらいに下がり、相手が言ったことを何度も聞き直さなければならず、「がんばってもなかなか前に進まない徒労感」を味わわなければいけないのがとても億劫だった。

それに加えて、パートナーと電話で話すというのにも強い苦手意識があった。

以前、コーチングの会社に転職をし当時の夫を福岡に残して東京に行ったがそのときに、東京から福岡にかけた最初の電話がなかなかに盛り上がらなかったのだ。

そのときすでに電話でするコーチングのトレーニングは一定期間受けていて、クライアントに対して電話でコーチングをしていたにも関わらずだ。

今となってはきっとむしろそれが仇となり、どこかで「話を聞いてあげる」というような態度になっていたのだろうと思う。

とにかく最初の電話で元夫はほとんど話をせず、やはり徒労感を感じ、私から電話をすることをやめてしまった。そして彼から電話をかけてくることもなかった。
テキストメッセージを送ることもほとんどなく、普段はほぼ連絡をしない、というような感じだった。

そんな状態では共同関係を続けられるわけがない。
もしかしたらそれでも続けられる関係はあるかもしれないけれど、わたしたちはそこまでの土台を築くこともできていなかった。

2月、それぞれ好きな場所でひとりの時間を過ごそうと決めてからも、電話で話ができるのかは自分の中で密かな小さな心配事だった。

彼はわたしから見ると割としょっちゅう友達や家族と電話で話している。
自分はほぼそう言ったことがないので、その点については異星人に見えるくらいだ。
電話は彼にとって違和感はないだろうということは分かっていたが、果たして自分たちは電話で話すことがあるのだろうか、話したとしてもわたしは相手の言わんとすることがわかるのだろうか。いつも以上に言いたいことが伝え合えなくて徒労感を感じるのではないだろうか。

そんなことを思っていた。

しかしそんな心配は杞憂だった。
不動産購入の検討という割と難易度の高い話についてもお互いの考えを深く話し合うことができたし、日々の小さなことも電話をすれば勝手に口から話が出てくる。彼は仕事をしておらず特に決まったスケジュールもないので、電話をすれば必ず電話口に出て、景色を見せてくれたり食べているものを見せてくれたりする。彼はわたしが仕事をしていないとわかっているときだけ電話をしてくることがあるが、それは気を使ってくれているのだろう。

付き合っているカップルにとっては当たり前のことかもしれないが、わたしにとってはこれがとても新鮮だ。

これから、定期的に一人の時間を持っても大丈夫だ、と、ますます思う。

一人の時間と大切な人との時間。これまではどこかで後者の方が多少(もしくはかなり)充実度が高いと思ってきたけれど、今はどちらも同じように充実感を感じる。充実感の種類は違うが、そこに優劣はない。

他者と健やかな関係を結ぶためには自分との健やかな関係が必要であり、自分との健やかな関係を結ぶためには、他者との健やかな関係が後押しになる。内的な関係構築と外的な関係構築、これらが歯車として噛み合うような環境や歩みの速度の調節が出来ると良いのだろう。

環境を作ることはできても、この歩みの速度の調整というのが意外と難しい。
急ぐこと、速く結果を出すことを求められる社会の中で、緩めること、ゆっくり歩むプロセスを大事にすることを自分や他者に許容することができるか。

目的やゴールを決めない長期休暇を取り、既存の社会や慣習から距離を置くことの価値は、「漂う」ことに身を委ねられることにあるのだろう。

変容のプロセスの伴走者には、何もしない、何も起こらない期間に前に進ませようとしない「待つ」もしくは「見守る」技量が求められる。

自分は自分に「漂う」時間を与えられることができているか。結局はそこに戻ってくる。
2023.2.5 Ubud, Indonesia Bali

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