見出し画像

染織書誌学研究家 − 後藤捷一(1892-1980) −

   藍の正確な情報と不正確な情報

本格的に藍関係の書物を読みはじめた頃、徳島の染工場で後藤捷一氏のことを教えていただきました。いまでも数々の文献を読み返すほど確かな内容で、藍の研究の中心に在るべき人なのにあまり知られずにいます。

後藤捷一の自宅「凌霄文庫」の蔵書は阿波に関する地方資料・国文学関係資料・染織関係の文献のコレクションが集められていました。晩年はおよそ70年にわたって集めた資料や文献を整理して、室町期以降大正末期までの日本の染織に関する文献、染織関係漢籍の翻刻書、染織見本帳、錦絵など671点からなる目録と解題『日本染織文献総覧』をまとめました。著作は『阿波藍譜』(1960-71)全6冊 三木文庫 『染料植物譜』(1937)はくおう社 『絵具染料商工史』(1938) 『江戸時代染織技術に関する文献解題』日本植物染研究所1940.1 『日本染織譜』(1964)東峰出版 『古書に見る近世日本の染織』(1963)大阪史談会 『染料植物譜』(1972)山川隆平共編 『唐草染布帖:紺屋手本』(1975)三彩工芸 『日本の更紗』(1978)染織と生活社 『日本染織文献総覧』(1980)染織と生活社など約100点に及びます。

文化庁(現:文部科学省)の文化財保護法によって昭和30年(1955)に、千葉あやの氏による藍染が「重要無形文化財」、同時に阿波藍栽培加工用具も「重要有形民俗文化財」として指定されました。昭和53年(1978)には阿波藍製造が「選定保存技術」に選定されました。

『あるくみるきく』近畿日本ツーリスト 1976.11の特集「阿波藍小話」での記事は、正確な情報に触れる機会がなかった当時、藍のことを知りたいと思う気持ちを満足させ理解するのに十分な内容でした。文化財保護法などの影響で藍が注目され、再評価された時期に出版されました。後藤氏のこのテキストを土台に、広く情報の収集をして現状の様子を伝えることは不可能だったのでしょうか。何も生かされていない現実に、文化庁の指定に関わられた人たち、支援しようと集まってきた人たちにどの様に読まれ、利用されたのか知りたいと思いました。民俗学者の宮本常一が主宰した日本観光文化研究所が発刊した『あるくみるきく』は一種警世の書籍でもあったとのことです。1967-1988年まで発刊されたことも、戦後日本社会の再生のための「気付きの発見」を受けとること、真剣にものを見るという行動は進んだのでしょうか。

徳島での阿波藍=蒅生産高は昭和31年(1956)が1,160俵、昭和40年(1965)には166俵になるほど衰退していた時期でした。インド藍や合成藍と年間4俵の蒅で割建ての藍染を行い1,000反ほど染める有名な紺屋でさえも、存続することは困難な情況でした。現状を正確に伝えられないまま、懐かしく美しい様相はマスメディアの後押しがあっても、いつか続けられなくなることは分かり切ったことでした。藍染を行っていた全国の紺屋は、時代が大きく変わるなか立ちゆかなくなり廃業が続きました。ましてや蒅だけで染めていた紺屋は立ちゆかないのは当り前で、蒅を保持しようと活動していた人たちは、一部の人を除き副業を頼りに存続しているのが現状でした。(収入では副業が本業)

私が藍のことを知りたいと思い調べていて一番困難だと思ったことは、情報の不正確さと信憑性を裏付ける知識の得難さでした。

次第に国内の藍に関わる書籍の発刊も、メディアに取り上げられることも少なくなりました。記事の内容も一度掲載されたものの上塗り情報が続くなか、2001年発行の『季刊銀花』No126を久しぶりに手にしました。特集は「藍の人・藍の技 ヴェトナム、中国、日本」です。掲載記事の中に「当代の紺屋さん繁盛記」として紺屋への訪問取材がなされています。特集全体の内容はほぼ上塗り情報なのですが、掲載された当代の紺屋は諸事情で続けられなくなった紺屋の元で10年間かけて技術を習得したそうです。そして昭和61年(1986)に藍瓶を8個持つ紺屋となります。「全く師匠に教えてもらったとおり」という藍建ては、「瓶の容積は一石五斗(約270L)で、蒅20数kg、石灰、苛性ソーダ、水飴、そして補助的にインディゴピュアを1kgほど加える」と、記されています。文中にも師匠直伝の割建てと書かれているように、決して内容を隠したり偽ったりしていない説明です。ただ、インディゴピュアを1kgほどとかかれた分量に驚きましたし、決して補助的な量とも思えません。問題はこの内容を聞かされても本藍染だと匂わす流暢な雰囲気を記者が作り出していることです。以前からこちらの紺屋は多くの書籍、雑誌に掲載されていました。染めている藍は、渋柿、藍栽培(薬品会社に販売)も稼業にしていることもあり、本来の純粋な藍染のように出雲絣という商標として、メディアや販売店で扱われていることは知っていました。出雲筒引藍染の祝風呂敷で有名な出雲市は、明治末期にはおよそ60軒の紺屋があり、現在では2軒のみになっていると「太陽 1974年12月号 特集 染と織のふるさと」に掲載されていました。指導を受けた安来市の師匠の紺屋も、当時は本藍染の担い手としてマスメディアで紹介されていました。

後藤捷一や藍の研究者が多くいた1960-70年代に、産業革命前の産業である藍製造者の貴重な仕事の内容の理解や存続への方向性が示せず、ただ商業的な消費だけが行われたように思えてなりません。一時は何のために記録に残そうとしているのか、報道すること全てが無意味に思えました。確かな情報のもと、何を保存して伝えていくのか、次世代に繋ぐための行動を決めなくては150年残った技術を活かすことができません。

   三木文庫設立に尽力

私にとって郷土の誇りとなる先人の存在が、藍のことを知る継続へと繋がったと思います。後藤捷一は明治25年(1892)徳島市国府町の藩政時代から続く藍師の家で生まれました。後藤家は組頭庄屋を勤めた旧家で、後藤家文書は組頭庄屋関係史料を中心に経営史•農政史•藩制史•商業史•文化史と多様な内容で村落史研究に活用されています。戸谷敏之『近世農業経営史論』日本評論社 (1949)の中で阿波と摂津の農業が特殊な経営であると、後藤家文書の経営史料を使い論証しています。

徳島工業学校染織科卒業後、兵役を務めたあと教師になります。その後大阪に出て社団法人染料協会書記長を勤め内外染料の研究や『染織』の編集、近畿民俗学会にも参加し、藍の民俗的研究も始めていました。戦争によって染料会館が爆撃されて、その後昭和19年染料会社・三木産業(現:三木産業株式会社)に勤務、退職後は民俗学研究家の渋沢敬三のすすめで徳島の三木家の古文書、藍関係資料の整理を行い三木文庫設立に尽力しました。

昭和29年(1954)当主の決断で創業280年記念事業として三木文庫を開館しました。全部が祖先以来歴代の事業からの史料なので、門外不出として公開されていなかった史料でした。阿波藍関係文書2,000点、藍関係緒用具類150点、藍染布類200点、天然色素とその標本の染布類300点、一般庶民資料12,000点が展示されています。他にも阿波の桍布(あらたえ•太布)、和三盆糖、人形芝居の関係資料、その内容は木綿普及以前の織布や機具類、和三盆糖製造用具類一切を収め県、国の重要民俗資料に指定されています。

博識で多方面にわたる教養を併せ持った後藤捷一は、数多くの歴史的視点から藍の文化を語り、疑義と論争のあった古代「山藍」の化学分析をすることで使途と色相の疑問を解明しました。そしてなによりも尊敬することは、難しいと言われる藍の染液の作り方も、藍染に関わる誰よりも正確に藍の醗酵建を書き記し、青の生まれるメカニズム―醗酵によって生じる化学変化の様子を独自の説明で教えてくれました。

                        ✦✦✦✦✦

https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/

2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?