森くみ子

阿波藍のこと日本の藍のことを調べています。藍の歴史や技術にまつわる多くの情報を次世代に…

森くみ子

阿波藍のこと日本の藍のことを調べています。藍の歴史や技術にまつわる多くの情報を次世代に繋ぎたい、もっと多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと考えています。徳島市内でアトリエHANADA倶楽部 主催→ https://www.japanblue.info

最近の記事

藍玉と蒅 ⅱ

   藍粉成し 「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東・名西・麻植・板野・阿波・美馬・三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。 「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板

    • 藍玉と蒅 ⅰ

         揉み藍と藍玉と蒅 『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍産地の優劣が書かれています。京洛外が一番良く、次が摂州東成、阿波、淡路となっています。ここでの評価の基準は判りませんが、京蓼の浅青は美しいとの記述があります。記されている藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍、刈り取った葉を揉み藍と藍玉に加工する仕方も書かれています。三才図絵が出版される前から阿波藍は全国に販売網をつくり、大坂・江戸問屋の開設も済ませ、藍の栽培・製法の秘密は非常に厳格になり、情報が他藩に知れることは

      • 藍でつくられる色ⅳ −瑠璃紺 紺色 褐色

           瑠璃紺 瑠璃色の名称は平安時代後期には見られ、藍の単一染めの名称としては早くから使われていました。玉石の瑠璃(ラピスラズリ)の色のような紫味の冴えた青色をいいます。『装束抄』に「濃花田色也。今濃浅黄と云」『山槐記』には「浅黄号瑠璃色」と記されていることから花田系統の色とされています。 瑠璃紺の名称は500年後の江戸前期1680年頃に愛用されていたことが、当時の風俗を写す雑誌『紫の一本』でわかります。瑠璃色がかった紺との意味で、深い紫味の青色をいいます。『守貞漫稿』喜

        • 藍でつくられる色ⅲ −千草 縹 御納戸色

             千草 千草「ちぐさ」は夏になると青い花を咲かせる露草の古称「つきぐさ:鴨頭草」の名から転訛したといわれ、露草の花のように明るい青色をいいます。源順が平安時代の承平年間(931–938)に編纂した辞書『和名類聚抄』に鴨頭草は「都岐久佐」「押赤草」と記載があります。鴨頭草の名称は延喜式・内蔵寮や万葉集にも見られます。月草とも表記され万葉集には9首詠まれ、染め色は水に色が落ち褪めやすいことから、心変わりをたとえたり、この世のはかない命をあらわし詠まれています。古にはアオバナ

        藍玉と蒅 ⅱ

          藍でつくられる色ⅱ − 瓶覗 水色 浅葱色

             瓶覗 藍の単一染で一番薄い色を「瓶覗」(かめのぞき)と呼びます。「覗色」とも呼ばれ染法から由来しているともいわれます。藍瓶の染液が使用され続け、最後は微かな色しか染まらなくなった液に一寸浸す意味です。もう一つの解釈として、水の張られた瓶に映った空の色を覗き見た色のようだという説もあります。近年は名称の響きや希少な出来事ように語られた藍の染め方に、モノ(藍)を大切にする愛おしさも相俟って知名度もあります。江戸後期には名称が見られますので、極薄い藍の色が生活の中で判断・記

          藍でつくられる色ⅱ − 瓶覗 水色 浅葱色

          原始・古代布ⅳ 「大麻」「苧麻」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          遺跡の発掘出土品から、例えば土偶の装飾や縄状植物繊維から少なくとも縄文時代には衣服を身につけていたと考えられます。衣服に用いられた繊維の調査は地下埋蔵環境中で腐朽していることが殆どなので、困難なことですがアサ科の「大麻」イラクサ科の「苧麻」「赤麻」「蕁麻」の植物繊維が確認されています。 大麻の原産地は中央アジア・西ヒマラヤといわれ、世界各地で古くから栽培され世界最古の繊維作物ともいわれています。繊維は衣服・縄に用いられる他、種実は食用にされました。日本には縄文時代草創期から

          原始・古代布ⅳ 「大麻」「苧麻」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          原始・古代布ⅲ 「太布」「木綿」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

             太布たふ 80%の山地を有している徳島県は、山間部に多く自生していた楮や榖(かじ)の皮を原料とした太布が、衣服などに用いられ山村の人々に長く利用されてきました。『阿波国木頭村土俗』(明治34年)によれば、太布の産地は明治30年頃には祖谷と木頭の二地域だけとなり、34年には木頭のみの生産と報告されています。楮も榖も桑科の植物で外観も似ています。木頭では楮をニカジ(皮を剥ぐとき煮ることから)、榖をマカジまたはクサカジと呼び区別しています。マカジである榖が本来の太布の原料で

          原始・古代布ⅲ 「太布」「木綿」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          原始・古代布ⅱ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

             木綿ゆう 白和幣しらにぎて 麁服あらたえ 棉の栽培は室町時代から始まったといわれ、文明11年(1479)頃から木綿(もめん)が織られるようになりました。室町時代以前の文献に「木綿」の語が散見しますが、こちらは「ゆう」と呼ばれる織物です。諸説はありますが楮あるいは榖(かじ)から作られた糸で織られたもので、細く紡いだものは木綿(もめん)のような風合いになります。なぜ「ゆう」と呼ばれるものに「木綿」という文字が使われたかというと、『三国志』東夷伝の書かれた時代(220-28

          原始・古代布ⅱ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          原始・古代布ⅰ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          日本列島に遥かむかしから住んでいた人々は生活地域で採取された、麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科などの植物性の繊維と蚕糸を衣類に利用してきました。江戸時代に木綿(もめん)が普及するまで、日本人の衣料はほとんど変わることなく、周辺の山野に自生する草や木の皮から糸を紡ぎ、布を織りだしてきました。縄文遺跡でみられる大麻、苧麻、赤麻などの繊維も、その発祥年代は定かではなく、渡来してきた歴史的過程も詳らかではないようです。阿波国には古くから楮・榖(かじ)の樹皮の靭皮を裂いて糸をつくり

          原始・古代布ⅰ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          明治の化学−中村喜一郎、昭和の化学−高原義昌

             中村喜一郎『堅牢染色法』明治22年 明治になって化学染料の使用が広まると、化学染料の使用方法が書籍によっても紹介されます。『西洋染色法』明治11年 東京府勧業課、『初学染色法』明治20年 山岡次郎、『堅牢染色法』明治22年 中村喜一郎など新しい技術の習得に熱心な様子が窺える内容になっています。化学染料と化学薬品は驚くほど早く多くの工場で使用が始まりますが、色の定着や生地の扱いなど従来使っていた天然物との変換には多くの困難がありました。これらの書籍の中には化学染料と並び

          明治の化学−中村喜一郎、昭和の化学−高原義昌

          染織書誌学研究家 − 後藤捷一(1892-1980) −

             藍の正確な情報と不正確な情報 本格的に藍関係の書物を読みはじめた頃、徳島の染工場で後藤捷一氏のことを教えていただきました。いまでも数々の文献を読み返すほど確かな内容で、藍の研究の中心に在るべき人なのにあまり知られずにいます。 後藤捷一の自宅「凌霄文庫」の蔵書は阿波に関する地方資料・国文学関係資料・染織関係の文献のコレクションが集められていました。晩年はおよそ70年にわたって集めた資料や文献を整理して、室町期以降大正末期までの日本の染織に関する文献、染織関係漢籍の翻刻

          染織書誌学研究家 − 後藤捷一(1892-1980) −

          藍でつくられる色ⅰ − 藍色

          平安初期の年中行事や諸制度を記した『延喜式』には、古代の朝廷運営マニュアルの具体的な内容が詳細に書かれています。同書の『縫殿寮』は衣服の裁縫などの管理監督の役所で染色材料や染色法なども記載されています。当時の標準色を染めるための取扱い説明書として興味深い史料です。『延喜式縫殿寮』には濃度によって深・中・浅・白の4段階の染め方と用度が記載されています。得たい色は材質が綾・帛・糸の違いによって染料の量が異なりますので、記されている内容で全てを比べることはできません。しかし藍色の色

          藍でつくられる色ⅰ − 藍色

          徳島県の紺屋 -明治 -大正 -昭和

          明治末期の阿波藍最盛期には、市中には少なくとも300軒の紺屋があったといわれています。しかし全国各地でインド藍、合成藍、化学染料が導入される大正10年には、紺屋の数は57軒になったと伝えられます。大正4年の徳島県の藍作面積は3884町歩(ha)で藍作農家は836軒(大正6年)です。それでも最盛期明治30年全国2位の愛知県での栽培面積4129ha近くは維持していました。市中の紺屋には化学染料が混在され、織業者300軒余りがしじら織と共に、阿波紺絣やその他の織物・服地などを明治期

          徳島県の紺屋 -明治 -大正 -昭和

          伝統的工芸品産業と藍

          昭和49年(1974)に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が通商産業(現:経済産業)省によって制定されました。伝統的に使用されてきた原材料を用い、伝統的な技術、技法によって製造することが挙げられていますが、目的は地場産品を生産し流通させ、産地が存続することにあるように思います。当初から「持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換することは、伝統的とする」と、重要無形文化財に比べると材料に対しても技術に対しても継続性を踏まえて、時代に即した変化が認められている基準になっていま

          伝統的工芸品産業と藍

          重要無形文化財と藍

          昭和25年(1950)に制定された文化財保護法によって、染織技術も無形文化財の工芸技術の一分野として保護されることになりました。無形文化財の指定対象は技術を保有する〈個人〉または〈団体〉です。そして特に重要性が高いと判断したものを重要無形文化財と指定されます。個人の場合は保持者(通称:人間国宝)が指定された工芸技術を高度に体得し精通していること、団体の場合は複数の人々によって伝承された技術が、指定された際の用件を満たした保存団体に認定されます。 指定条件は工芸技術の機械化が

          重要無形文化財と藍

          青色色素を藍菌が還元するメカニズム

             藍の青色色素を醗酵によって水溶性にする!? 藍の染色は他の植物による染めと比べると大きく違うことがあります。藍の葉に含まれる青色色素が水に溶けないため、容易に染色することができません。正確に伝えますと、しばらくの間は水に溶けるのですが、すぐ水の中で溶けない物質に変わるのです。色素が水に溶けるということは、染める対象の繊維に浸透することで色素が固着し、より強固に固着するため媒染剤という両者を取持つ物質の力も有効に利用できます。 水に溶けない藍の色素を水に溶かし、布や糸

          青色色素を藍菌が還元するメカニズム