森くみ子

阿波藍のこと日本の藍のことを調べています。藍の歴史や技術にまつわる多くの情報を次世代に…

森くみ子

阿波藍のこと日本の藍のことを調べています。藍の歴史や技術にまつわる多くの情報を次世代に繋ぎたい、もっと多くの人たちとこれからの藍の定義を共有したいと考えています。徳島市内でアトリエHANADA倶楽部 主催→ https://www.japanblue.info

最近の記事

藍の品種

   『和漢三才図絵』 藍の品種 ― 高麗藍 京蓼 広島藍 徳島で栽培されている藍は、タデ科の一年草で学名はPolygonum tinctorium Lour 原産地は東南アジア、中国南部といわれています。帰化年代は未だわかりませんが、飛鳥時代に遣随使が持ち帰ったのではという説が一般的です。大宝2年(702)制定の『大宝律令・賦役令』『続修東大寺正倉院文書』などに藍関係の記事が見られることから、八世紀初頭には染料や薬物として栽培が始まっていたことは間違いないと思われます。

    • 山藍 韓藍 呉藍

         山藍 呉藍 藍のことを調べ出した切っ掛けのひとつは、万葉集に詠まれている藍の表記からでした。古代日本の記録は和語にあてた漢字で表記されているため、理解が進まないものが多くあります。山藍、韓藍、呉藍の解釈に何故かしっくりこないまま、40数年もの月日が過ぎてしまいました。これらの解釈から青色を染める藍草が万葉集では詠まれていないことにも、なにも説明ができずに資料ばかりが増えてしまいました。興味のある方、詳細に調べたい方は一緒に考えてみませんか。 山藍(やまあい)の表記が

      • 呉藍 紅藍 紅花 韓紅花 紅藍花

           呉藍 紅藍 韓紅花 呉藍は和名を「久礼乃阿為」くれのあい、やがて漢名の紅藍・紅花を用いるようになります。飛鳥時代に中国から朝鮮半島を経て渡来したといわれています。呉国(中国)から伝えられた藍(当時は染料の総称)という意味で、「くれのあい」が「くれあい」と訳されやがて「紅」の字を当てるようになったといわれています。万葉集では29首が詠まれていますが「くれのあい」から「くれない」に変わり、末摘花を併用しているものも1首あります。赤の色素を持つ植物は少なく、古代染色の中でも

        • 藍でつくられる色ⅴ −青

             白和幣 青和幣 白と青の表記は『古事記』天岩屋戸の神話に見えます。天岩屋戸の前で太玉命(フトタマノミコト)が、真栄木(榊)の枝に鏡と玉を懸け、白和幣(しらにぎて)青和幣(あおにぎて)を取り垂でて・・・・と上古に行われた祭祀の行事に使われる、樹皮の繊維で作られたものの名称に使われています。白和幣は楮/穀(かじのき)から、青和幣は大麻から作られた繊維だといわれていて、白と青はそれぞれの繊維の色を表しています。白と青の色彩シンボリズムは祭祀・王権の中心の色として、祈年祭の祝

          藍玉と蒅 ⅱ

             藍粉成し 「藍粉成し」とは文字通り刈り取った葉藍を刻み、粉状になるように手早く乾燥させる藍製造工程で一番辛い作業です。徳島県の藍栽培地は藩政時代から明治中期頃まで、吉野川沿岸一帯の名東・名西・麻植・板野・阿波・美馬・三好の「芳水7郡」237村が藍作の中心地でした。動力を使うことのなかった頃の栽培から藍粉成しまでの労働は、非常に過酷なもので忙しいことを「藍粉成しのようだ」と云われていました。 「阿波の北方 起上がり小法師 寝たと思うたら 早や起きた」「嫁にやるまい 板

          藍玉と蒅 ⅱ

          藍玉と蒅 ⅰ

             揉み藍と藍玉と蒅 『和漢三才図絵』正徳2年(1712)の中に藍産地の優劣が書かれています。京洛外が一番良く、次が摂州東成、阿波、淡路となっています。ここでの評価の基準は判りませんが、京蓼の浅青は美しいとの記述があります。記されている藍の品種は高麗藍・京蓼・広島藍、刈り取った葉を揉み藍と藍玉に加工する仕方も書かれています。三才図絵が出版される前から阿波藍は全国に販売網をつくり、大坂・江戸問屋の開設も済ませ、藍の栽培・製法の秘密は非常に厳格になり、情報が他藩に知れることは

          藍玉と蒅 ⅰ

          藍でつくられる色ⅳ −瑠璃紺 紺色 褐色

             瑠璃紺 瑠璃色の名称は平安時代後期には見られ、藍の単一染めの名称としては早くから使われていました。玉石の瑠璃(ラピスラズリ)の色のような紫味の冴えた青色をいいます。『装束抄』に「濃花田色也。今濃浅黄と云」『山槐記』には「浅黄号瑠璃色」と記されていることから花田系統の色とされています。 瑠璃紺の名称は500年後の江戸前期1680年頃に愛用されていたことが、当時の風俗を写す雑誌『紫の一本』でわかります。瑠璃色がかった紺との意味で、深い紫味の青色をいいます。『守貞漫稿』喜

          藍でつくられる色ⅳ −瑠璃紺 紺色 褐色

          藍でつくられる色ⅲ −千草 縹 御納戸色

             千草 千草「ちぐさ」は夏になると青い花を咲かせる露草の古称「つきぐさ:鴨頭草」の名から転訛したといわれ、露草の花のように明るい青色をいいます。源順が平安時代の承平年間(931–938)に編纂した辞書『和名類聚抄』に鴨頭草は「都岐久佐」「押赤草」と記載があります。鴨頭草の名称は延喜式・内蔵寮や万葉集にも見られます。月草とも表記され万葉集には9首詠まれ、染め色は水に色が落ち褪めやすいことから、心変わりをたとえたり、この世のはかない命をあらわし詠まれています。古にはアオバナ

          藍でつくられる色ⅲ −千草 縹 御納戸色

          藍でつくられる色ⅱ − 瓶覗 水色 浅葱色

             瓶覗 藍の単一染で一番薄い色を「瓶覗」(かめのぞき)と呼びます。「覗色」とも呼ばれ染法から由来しているともいわれます。藍瓶の染液が使用され続け、最後は微かな色しか染まらなくなった液に一寸浸す意味です。もう一つの解釈として、水の張られた瓶に映った空の色を覗き見た色のようだという説もあります。近年は名称の響きや希少な出来事ように語られた藍の染め方に、モノ(藍)を大切にする愛おしさも相俟って知名度もあります。江戸後期には名称が見られますので、極薄い藍の色が生活の中で判断・記

          藍でつくられる色ⅱ − 瓶覗 水色 浅葱色

          原始・古代布ⅳ 「大麻」「苧麻」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          遺跡の発掘出土品から、例えば土偶の装飾や縄状植物繊維から少なくとも縄文時代には衣服を身につけていたと考えられます。衣服に用いられた繊維の調査は地下埋蔵環境中で腐朽していることが殆どなので、困難なことですがアサ科の「大麻」イラクサ科の「苧麻」「赤麻」「蕁麻」の植物繊維が確認されています。 大麻の原産地は中央アジア・西ヒマラヤといわれ、世界各地で古くから栽培され世界最古の繊維作物ともいわれています。繊維は衣服・縄に用いられる他、種実は食用にされました。日本には縄文時代草創期から

          原始・古代布ⅳ 「大麻」「苧麻」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          原始・古代布ⅲ 「太布」「木綿」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

             太布たふ 80%の山地を有している徳島県は、山間部に多く自生していた楮や榖(かじ)の皮を原料とした太布が、衣服などに用いられ山村の人々に長く利用されてきました。『阿波国木頭村土俗』(明治34年)によれば、太布の産地は明治30年頃には祖谷と木頭の二地域だけとなり、34年には木頭のみの生産と報告されています。楮も榖も桑科の植物で外観も似ています。木頭では楮をニカジ(皮を剥ぐとき煮ることから)、榖をマカジまたはクサカジと呼び区別しています。マカジである榖が本来の太布の原料で

          原始・古代布ⅲ 「太布」「木綿」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          原始・古代布ⅱ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

             木綿ゆう 白和幣しらにぎて 麁服あらたえ 棉の栽培は室町時代から始まったといわれ、文明11年(1479)頃から木綿(もめん)が織られるようになりました。室町時代以前の文献に「木綿」の語が散見しますが、こちらは「ゆう」と呼ばれる織物です。諸説はありますが楮あるいは榖(かじ)から作られた糸で織られたもので、細く紡いだものは木綿(もめん)のような風合いになります。なぜ「ゆう」と呼ばれるものに「木綿」という文字が使われたかというと、『三国志』東夷伝の書かれた時代(220-28

          原始・古代布ⅱ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          原始・古代布ⅰ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          日本列島に遥かむかしから住んでいた人々は生活地域で採取された、麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科などの植物性の繊維と蚕糸を衣類に利用してきました。江戸時代に木綿(もめん)が普及するまで、日本人の衣料はほとんど変わることなく、周辺の山野に自生する草や木の皮から糸を紡ぎ、布を織りだしてきました。縄文遺跡でみられる大麻、苧麻、赤麻などの繊維も、その発祥年代は定かではなく、渡来してきた歴史的過程も詳らかではないようです。阿波国には古くから楮・榖(かじ)の樹皮の靭皮を裂いて糸をつくり

          原始・古代布ⅰ 「倭文」「木綿」「麁妙」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-

          明治の化学−中村喜一郎、昭和の化学−高原義昌

             中村喜一郎『堅牢染色法』明治22年 明治になって化学染料の使用が広まると、化学染料の使用方法が書籍によっても紹介されます。『西洋染色法』明治11年 東京府勧業課、『初学染色法』明治20年 山岡次郎、『堅牢染色法』明治22年 中村喜一郎など新しい技術の習得に熱心な様子が窺える内容になっています。化学染料と化学薬品は驚くほど早く多くの工場で使用が始まりますが、色の定着や生地の扱いなど従来使っていた天然物との変換には多くの困難がありました。これらの書籍の中には化学染料と並び

          明治の化学−中村喜一郎、昭和の化学−高原義昌

          染織書誌学研究家 − 後藤捷一(1892-1980) −

             藍の正確な情報と不正確な情報 本格的に藍関係の書物を読みはじめた頃、徳島の染工場で後藤捷一氏のことを教えていただきました。いまでも数々の文献を読み返すほど確かな内容で、藍の研究の中心に在るべき人なのにあまり知られずにいます。 後藤捷一の自宅「凌霄文庫」の蔵書は阿波に関する地方資料・国文学関係資料・染織関係の文献のコレクションが集められていました。晩年はおよそ70年にわたって集めた資料や文献を整理して、室町期以降大正末期までの日本の染織に関する文献、染織関係漢籍の翻刻

          染織書誌学研究家 − 後藤捷一(1892-1980) −

          藍でつくられる色ⅰ − 藍色

          平安初期の年中行事や諸制度を記した『延喜式』には、古代の朝廷運営マニュアルの具体的な内容が詳細に書かれています。同書の『縫殿寮』は衣服の裁縫などの管理監督の役所で染色材料や染色法なども記載されています。当時の標準色を染めるための取扱い説明書として興味深い史料です。『延喜式縫殿寮』には濃度によって深・中・浅・白の4段階の染め方と用度が記載されています。得たい色は材質が綾・帛・糸の違いによって染料の量が異なりますので、記されている内容で全てを比べることはできません。しかし藍色の色

          藍でつくられる色ⅰ − 藍色