原始・古代布ⅲ 「太布」「木綿」-麻・苧・蕁麻・楮・榖・藤・葛・桑・科・蚕糸-
太布たふ
80%の山地を有している徳島県は、山間部に多く自生していた楮や榖(かじ)の皮を原料とした太布が、衣服などに用いられ山村の人々に長く利用されてきました。『阿波国木頭村土俗』(明治34年)によれば、太布の産地は明治30年頃には祖谷と木頭の二地域だけとなり、34年には木頭のみの生産と報告されています。楮も榖も桑科の植物で外観も似ています。木頭では楮をニカジ(皮を剥ぐとき煮ることから)、榖をマカジまたはクサカジと呼び区別しています。マカジである榖が本来の太布の原料であったといわれ、緻密で上質な織物になるのですが糸にするまでの手順に手数がかかるため今では使われません。木頭村では97%が林野で、藩政時代から楮の木をカミソ(紙素)としても栽培し、楮や榖で織られた太布を衣服や穀物を入れる角袋などに使用し、衣も食もほぼ自給自足の生活でした。太布織が盛んに行われていた40年代には、約400戸の村に300台の機を持ち最大の生産高は年間2,000反を織っていたそうです。織上げた太布の一部は行商人によって、太布1反と綿織物1反が等価で交換されることが多く、因みに明治末期の太布の値段は1反一円十銭程でした。
木頭は杉の美林で知られ、明治30年代から外部の資本が導入され杉の植林が進められます。山の雑木は少なくなって、楮や榖は製紙原料として出荷する方が利益が上がるようになり、大正時代になると綿織物に圧倒されて太布の生産は急減しました。ほとんど衰退していた太布織を明治生まれの人たちが復活し、現在も年間を通して作業をして技術の伝承をしています。
榖かじ 楮こうぞ
榖の木の原産地は中国・東南アジアとされますが、不明との記述もあります。楮や姫楮と同様に樹皮を布、縄、紙の材料とするために日本に渡来したといわれ、各地で栽培されたものが野生化し日本各地の山野で自生しています。雌雄異株の榖の木が国内では両方の木が揃って確認されていることが多いですが、国外には雌の木だけしか存在しない地域もあり丸木舟に乗せて運んだなど、伝播経路を推測する地道な研究や原産地の解明が進むことを期待します。楮と姫楮と榖は古くから同じものとされたり、区別されて利用されてもきましたが厳密には異なる属に分けられます。今日でも区別するのは容易ではありませんが、楮は姫楮と榖との雑種であると考えられています。
縄文中期~晩期の遺跡からコウゾ属、ヒメコウゾの核が見つかることから、この頃には日本に渡来したと考えられます。三内丸山遺跡、鳥浜貝塚遺跡などからも果実が大量に出土しています。食用か酒造りの原料に果実を使用したと思われる跡は発見されていますが、樹皮を利用した遺物は発見されていません。徳島県ではカジノキ、ヒメコウゾの核が西州津遺跡(縄文時代後期)から発見されています。
推古天皇18年(610)に高麗の僧曇徴により紙墨が伝わり、日本でも紙を作ることが始まり7世紀末頃には自ら多くを製造するようになりました。正倉院に残る紙の約八割は楮で、残りは雁皮、麻だそうです。正倉院文書の中にはいろいろの紙の名が記されていて、原料を表したものと思われる中に「榖紙」「加地紙」「加遅紙」「梶紙」と榖が用いられたことがわかる記載がありますが、楮の名は見えません。漢の辞書『説文』に「榖、楮成」と記されているように、中国でも古くは区別をしていませんでした。日本で楮の字が用いられるようになったのは平安時代になってからだともいわれています。正倉院に残る紙も、名が示す紙の原料の特定は精密な科学分析がされていないので分からないようです。
正倉院中倉と南倉に6束ほどの「木綿(ゆう)」が所蔵されています。日本産なのか渡来品なのかは分かりませんが、全て均一に叩き延ばされた薄いシート状だそうです。原料は楮か三椏と推定しているが解明はされていないとの事です。他にも黄色から茶色味を帯びた硬くて太い繊維束が11束が箱装されたもの、茶色の繊維束で無撚の糸の木綿の緒が所蔵され、顕微鏡観察では楮か三椏と思われています。
楮の原産地は中国中南部・東南アジアなどといわれ、日本には弥生時代の遺跡から大麻より少ないですが出土します。出土品に木綿(ゆう)の一部が残されている場合、古墳から出土する鏡の鈕孔に木綿が発見されます。鏡に木綿が結ばれていたことを示すもので、大麻が結ばれた事例は1件ということです。事例の最古は弥生後期後半の3世紀とされる福岡県鞍手郡若宮町の木棺墓の鏡に、また、正倉院所蔵の鏡13面にも木綿が結ばれていました。鏡の紐に木綿を用いる習慣は3世紀から奈良時代まで存続していたと、布目順郎が『古代学研究』97号1982年に記載しています。
榖の木で織られる木綿(ゆう)と太布との関係を示す文献史料はありません。室町時代の古辞書である饅頭屋本『節用集』に標記語「太布」訓み「タフ」とあり、江戸時代の『書言字考節用集』には標記語「荅布」「太布」訓み「タフ」と二種の標記を収載し、「指南麁カ厚キ布ヲ曰ニ・・・・」と漢書からの語註も記されています。
歴史学者の三宅米吉は『栲布考』(明治23年)の中で「太布=麁/荒妙・和妙」と推定されています。「妙」は栲(たえ)の借字だそうで、「栲」の意味はコウゾ、カジノキの古名。カジノキなどの繊維で織った布。布類の総称「和栲(にぎたえ)荒栲(あらたえ)」との解釈から太布=栲布=木綿ということのようです。明治・大正時代の民俗学者や歴史学者たちは太布の語源についても論説されていて、那波利貞はイラン語が源で中国、日本に伝わったといいます。『史記・貨殖列伝』司馬遷に「榻布(トウフ)」の記載があり「きめの荒い厚い布」とされ、『漢書・食貨志』班固に記されている「荅布」と同一と考えられています。「荅布」が樹皮布/タパの最も早い字形であり、太布と同じである可能性を指摘しています。民俗・神話学者の松本信広の説を引いて、谷川健一はタパ→栲/妙→太布と想定しています。
中国の学者たちも樹皮植物など材料難解な布の研究は困難が多く、印度からの木綿は「橦布(トウフ)」と表記があり草種木綿と考察しています。草種木綿(クサワタ)と木種木綿(キワタ)の解釈から「榻布」は「荅布」と同じ木種木綿の名称と考えます。
榖による樹皮布は広く世界に分布していますが殆どがビート技術による不織布であって、日本で受け継がれた木綿(ゆう)や太布は榖の樹皮を糸にしてから織った布です。統一国家が造られていく過程で大切にされた神事や祈りに使われた木綿・麻のことでさえ、いつまでも何も解明されないことに不安さえ感じます。藍を調べていても思慮するのですが、学者の方たちにはどこまでが神話で、どこからが日本列島に住む民族の歴史なのかの見解を示すために、客観的に一心な研究をして解明していただきたいです。
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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。