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藍でつくられる色ⅳ −瑠璃紺 紺色 褐色

   瑠璃紺

瑠璃色の名称は平安時代後期には見られ、藍の単一染めの名称としては早くから使われていました。玉石の瑠璃(ラピスラズリ)の色のような紫味の冴えた青色をいいます。『装束抄』に「濃花田色也。今濃浅黄と云」『山槐記』には「浅黄号瑠璃色」と記されていることから花田系統の色とされています。

瑠璃紺の名称は500年後の江戸前期1680年頃に愛用されていたことが、当時の風俗を写す雑誌『紫の一本』でわかります。瑠璃色がかった紺との意味で、深い紫味の青色をいいます。『守貞漫稿』喜田川守貞編(天保8年-嘉永6年・1837–53)の風俗事典にも「紺」の条に「藍染の極濃を云、特に瑠璃の如きをルリコンと云」と記されています。

   紺色

紺の名称が現れるのは古く、大化3年(647)孝徳天皇の七色十三階の冠位の制からで「ふかきはなだ」と呼ばれていました。『延喜式縫殿寮』に紺の染色名はなく、藍の濃染が行われている色名は濃縹です。名称、色調は律令制とともに中国の随・唐から伝わりましたが、中国最古の類語辞典『爾雅・释器』によると中国古代の染色で「紺」は三度赤い染汁(茜草)に浸けた「纁(くん)」と呼ばれる真赤に染めたものを黒い染汁に一度浸けたものを「紺(かん)」と言い「えびちゃ」色でした。『説文解字』は「紺、帛ノ深青ニシテ赤色ヲ揚グ」と記し、『釈名』も「紺、含也、青ニシテ赤色ヲ含ム」と記しています。中国でも前漢ごろの書籍『爾雅』から後漢ごろの『説文解字』『釈名』では色調が違っています。

日本の「紺」はその色相も中国古代の常識とは無関係に使用されていて、文字だけを中国古代名を使い和名に読み変え、色相も始めから藍の単一染めでした。『日本色名大鑑』昭和25年(1950)上村六郎・山崎勝弘には「藍の中に副産物として赤く染まる染料を含んでいるから、天然のものは原料によってはかなり赤味にも染まる」と記されています。

中国古代の「青」の示す色相は緑味の多い青色で、随・唐時代の「青」はやや赤味がかった青色で青が縹と同意語で用いられていたといわれます。日本でも古い時代の「青」は緑色・青緑・青色・青紫・紫および、中間色も含んでいたといわれています。古代の色彩名は実に複雑な色相を持っていて、ほぼ想像の域で判断して納得するしか無いわけですが、日本の場合は中国の影響も時代毎に随所みられるのでより解釈が複雑です。染色されたもので考古学的資料が残されることは絶望的なので、古くから続く時代の観念がその後も並列して続き、色相と色名は結論がでないまま語られ続くのでしょうか。

色の名前の付け方が曖昧で誤解を招きやすいことは世界共通のことです。合理的に表現したいと考えた画家、美術教育者である アルバート・マンセル(1858-1918) は、色相・明度・彩度の三属性により色を定量的にあらわす画期的なシステム「マンセル表色系」を考案しました。今では国際基準・JAS規格に活用され、日本の伝統色の色調の内容も平易に伝えられるようになりました。多くの研究者や学者の方たちが、古文献や古裂などいろいろな資料をもとに検証し、色相と色名を考証して伝えてこられたと思いますが、受け取る側も色名をイメージし使うときの認識が普遍的なことになるために学びが必要かも知れません。

平安時代中期、10世紀末ごろ書かれた『落窪物語』三「今五郎は、紺の紙に黄金の泥して書きて」との記載があるようにこの頃、紺紙金泥経という金泥で写経をし経典を荘厳する形式が生まれました。天然染料である藍の防虫効果が目的でしたが、この色が仏の国を覆うという「瑠璃」と結び付けられてもいたようです。「紺紙金泥経(神護寺経)」奈良県蔵「紺紙金泥経大般若経」三原市蔵「紺紙金字阿弥陀経 平忠盛筆」五島美術館蔵とあるように「紺」の色と平安時代の思想や世界観とが結びついたのでしょうか。それ以後も見られ「紺紙金泥法華経」兵庫県蔵など鎌倉時代以降も続きます。

紺は江戸時代には『御ひいなかた』(1666年)の小袖地色にも見え愛用されるようになります。浮世草子・好色一代女(1686年)「たちながら紺のだいなしのつまをまくりあげて‥‥」、浄瑠璃・心中宵庚申(1721年)「御門脇の長屋より紺のだいなし、裾七の図‥‥」と江戸期の町人の文芸にも紺が登場します。「だいなし」とは中間・小者などが着る紺の無地の筒袖の着物のことです。

   褐色

褐色は「かちいろ・かちんいろ」と呼ばれ、紺よりさらに濃く黒く見えるほど暗い藍染の色です。平安時代から褐色の名称は見られ、『宇津保物語』『梁塵秘抄』の中に「かちの衣着たる」「飾磨にそむるかちの衣着む」と書かれています。古くは中将・少将も着用しましたが、野外に行幸するときに随従した者が着た衣服で、後には高官などを警護する武官や兵士が着るようになります。「青褐」の色名は正倉院文書の中にもみられ、延喜式・弾正台の中にも随従者の服の色として記されています。「褐返し」という別の色で染めた上に藍で染めた色を表す表記も平安時代の書物にあります。

「褐色」の色相は多くの解釈があって未だにはっきりした説にはなっていません。藍を濃く染めるために、生地を「搗(か)つ」=搗(つ)くことで染法から名付けたともいわれています。現代では褐色「かっしょく」と音読みして色相は茶色や焦茶色をさしますが、中国から伝来した初めは現代と同じく茶色を意味していたものと思われます。鎌倉時代の武士に広く用いられるようになると、褐=勝に結び付けられて藍で染めた濃い紺色が直垂や鎧・縅などに使われ、褐色・勝色と表記された資料が多く残ります。

江戸時代になると「かちん色」「かちん染」と呼ばれ、『貞丈雑記』(~1784執筆1843刊行)伊勢貞丈には「かちん色と云は黒き色を云。古異国より褐布と云物渡しけり。其色黒き色なりし故黒色をかち色ともかつ色とも云。……褐布は今の羅紗の類にて毛織也。……俗にかちん色と云」『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)には「西土の書にはいずれにしても黒色を兼ねたる色を何褐色と云ふ。たとへば、トビ色を素褐色、アヰミル茶を青褐色、キカラ茶を貴褐色といふ。皆黒色を兼ねたる色なり…」随筆『神代余波』(1847)斎藤彦麿の中では「かち色といふも、極上紺の濃く黒くなりたる色也。さるは近年は空色と浅黄との間にて匂ひやかならぬをいへり。さる物にあらず。紺に染て臼にてつき又そめて、𣇃(つ)きいくたびもいくたびもしかれば黒くなりて赤き光り出る物なり」と記されています。

明治になり軍服の用度の中に「褐布」が見られます。茶褐布はカーキ色、紺褐布は濃紺色とし、羅紗であったので次第に茶褐絨・濃紺絨の表記が多くなりました。日露戦争時には再び「勝色」「軍勝(ぐんかつ)色」などとしての呼名が流行したそうです。

文化12年(1815)刊行の藩撰の地誌『阿波志』は各町村の役人に命じて、郡ごとの沿革や耕地・租税・寺社・古跡・産物を編纂している史料で、その中に板野郡撫養(鳴門市)の産物として「褐布撫養出」「韈(たび)亦撫養出以褐及草綿布製之」と書かれていますが、この鳴門産・褐布はどのようなものだったのでしょうか。

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。

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