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藍草・染料による青系統の名称ー明治期、藍の盛衰で変わる新しい藍色の混乱

藍で染めた色の名称は中国の隋・唐の法体系に基づく律令制が倭に導入された時から、呉語、漢語、和語表記の並立による混乱でしたが染材は藍草でした。すでに平安時代になると青、縹、藍色の区別が鮮明でなくなり、各々の所属先で使われ伝わる範囲で名称が固定して、色名と色の区別が統一され普遍的には成らなかったように思えます。一方源氏物語や枕草子などの文学作品のなかには、藍で染めた濃淡を表す水色、浅葱色.瑠璃色など新たな色名も増え、他の染料と染め重ねた萌黄や桔梗、紫苑など複雑な色も貴族や公家の間で名付けられます。

鎌倉、室町、桃山時代と長いあいだ戦争の日々と権力者の交代が続き、江戸時代になっても八代将軍吉宗のころまで色名と染料の定義をする公的機関もなかったようです。(個々では伝承されていたと思いますが‥‥)享保14年(1729)江戸城吹上御苑に染殿を設け染工を集めて、『延喜式』で染められた染色の復古を提唱しました。『式内染鑑』にその成果が見られますが、染め布を貼付したものは現存せず絵具による色相、染材料の記載などが確認できます。

宝暦期(1751-1764)になると武家だけでなく宮廷でも紺や納戸色、濃い青の地色が流行するようになります。阿波では藍の栽培が増え全国の売場に送る交易網もでき、元文5年(1740)には栽培面積が3000ヘクタールという記録があります。
この頃、平賀源内が『物類品隲』の中で紹介したベロ藍(ベルリン藍)が日本にも現れるようになります。18世紀前期に練金術の盛んな欧州で生まれた黄色血滷塩(けつろえん)、黄血塩はベルリンブルー、プルシアンブルー、チャイナブルーとも呼ばれ顔料として使われます。動物の血液、内蔵などの窒素を含んだ有機物に草木の灰(炭酸カリウム)と鉄を加え作られ、強熱することで濃青色沈殿が生じます。1826年には清国から大量に輸入され、陶磁器や浮世絵などにも多く使われるようになります。
この時から青色に染まる物質は、藍草から作られる藍玉・蒅、藍成分だけを沈殿させた固形のインド藍や泥状の琉球藍、黄血塩である紺粉(ソルブルブルー)やベロ藍など多様な名称が使われることになります。多様な形態の藍や青色染料を使い、伝統的な作法と新しく導入された物質を使った染色方法が紹介され、多彩な青色が現れることになりました。


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明治以降は新たに青色を染めるいろいろな種類の染料が登場します。大方の人たちはどんな染料で染めた青なのかは知ることもなく、従来の植物染料由来の染料だと思っていたかも知れません。流行に敏感な詩人や文学者が舶来のインド藍を呼ぶ「靛藍」あるいは「藍靛」をいち早く使っているのを見ると、どこまで理解されて使い分けているのか知りたくなります。その後続く西欧からの舶来品や新しく生まれた商品を受け入れるとき、流行を動因力として曖昧な雰囲気で紹介されることが繰り返されるようです。

昭和3年、工業化の進んだ化学染料による織物と植物染料を使った手織物との違いを区別するために、山崎斌は第1回「草木染手織復興展覧会」を開催しました。(参考:昭和5年全国藍作付面積523ha.最盛期の0.014%)
産業界から植物染料による手織物が壊滅したこの頃から、柳宗悦などによって古(いにしえ)の地域生産の織物への再評価が高まり、天然染料を使うことを指しての名称がそれぞれの関係者によって名付けられます。
 
 「草木染」   山崎斌 作家 評論家 染織家
 「染料植物」  白井光太郎 植物研究者
 「和染」    後藤捷一 染織書誌学者
 「本染」    上村六郎 上代染織史学者
 「古代植物染」 後藤博山 染織家
 「草根花木皮染」松本宗久 染織研究者
 「天然染料」  前田雨城 吉岡常雄 木村光雄

産業であった藍染料も昭和になると主観的な定義のなか、狭い範囲で関係者諸子の情報が言葉優勢に伝授され、実体を指す言葉の定義をより複雑に曖昧にします。絶えず新しいものが流入することで、そのものを現す言葉の定義がなされないまま使われ,定着してしまいます。
日本の藍にとって僅かながらも生産が残ってしまったことで、大変複雑な言葉遊びがこれから長い間,そして今も続くことになります。昭和41年(1966)に徳島県藍作付面積が4ヘクタールとなったとき日本の藍の生産は最低になりますが、数量に合わない藍染商品が作られることになりました。その後、日本の藍の存続を願う人たちの尽力で20ヘクタール前後まで増えます。最盛期の明治36年(1903)全国藍作付面積は36.412ヘクタールなので当時の0.00054%の生産ということです。


明治憲法下で市制がしかれた頃の徳島は、阿波藍の隆盛がつづき大変活気のある状況だったようです。
藍商人の数もおよそ4000人いたと伝えられています。それぞれが格付を競っていた様子を藍商人見立一覧表で見ることができます。


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両親、祖父母は徳島の出身ですので、関東で育った私でも少しは徳島のことは知っていました。だけども藍のことなど聞いたこともありませんでした。父方の祖母はこの場所で(徳島市佐古町)長年暮らし、訊ねますと大正時代には近くで紺屋が営んでいたことを覚えていました。明治31年(1898)に合成藍の輸入が始り、祖母の青春時代の明治40年代には合成藍や硫化染料の全盛期になっていました。結婚当初、佐古町で染めた藍糸で夫や子の着物を織っていたそうです。祖母は阿波藍だと思っていましたが……残っている織布から判断すると化学染料です。


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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。

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