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【文学コラム】人頭獣体のミノタウロス

 人頭獣体のミノタウロス──これは世界的な傑作、ダンテ『神曲』に実際に登場する怪物です。
 ゲームなどでご存知の方も多いと思いますが、一般的なミノタウロスは獣頭人体、逆のビジュアルで知られています。何故ダンテ程の大作家がこのような間違いをしたのか?
 ボルヘスがエッセイで解説する所に拠ると、ダンテはギリシャ古典を読むことが出来ず、古典詩は同じイタリア──ラテン語圏のウェルギリウス『アイネイアス』などで勉強し、そこにミノタウロスの名前はあったものの、その姿の描写がなかった為と分析しています。成る程。
 さて、この事例は本と書き言葉の欠点の一つ、誤読と誤謬を現しています。
 私は拙作『聖都の落日』でテーマに用いていますが、この問題はプラスの面とマイナスの面、どちらの要素も含んでいる事はよく知られており、こういった言葉で書き表せるかと思います。

書き言葉による伝達は、如何に言語が最適化されたとしても誤解が起こるのが前提である。

更にここから導けるのは、

書き手側がどんなに完璧な文章を書いたとしても、理解は読み手次第であり、読み手の数だけ解釈が存在する。

という点だと思います。
 これは実は、厳密な理論立てが必要とされる数学の論理や補題にも言える事です。大学数学・物理を専門でやってた場合は解りますが、基本的な理論や証明を教える授業の他に、必ず演習の授業があります。
 基礎の授業でも教科書や証明に無い要点やアイディアを先生が説明するのですが、その理解や思考過程、数学的思考が間違ってないか演習の授業で更に確認し、誤解や誤謬を取り払う必要があるのですね。
 つまりは、厳密に書かれてる数学や物理の証明でも、授業と演習が無ければ誤解や誤謬が起こる可能性が高いのです。

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 書き言葉の持つ欠陥、これは古典的な作家や書物に関する原理主義者には当然打撃であり、”歴史上の作家は全員、一冊の完璧な本を作り上げるために存在する”と言ったフローベールやマラルメの理想の一つの否定にもなります。
 しかしながら、書き言葉の持つこの特質は別のメリットも生みます、分かり易いのがアーサー・マッケンやH.P.ラヴクラフトの用いる”朦朧法”です。
 この手法は物語の核心や恐怖の対象物を描かず、巻き込まれた人物や周囲の異常を描く事で言外の恐怖を読み手に与える、という方法で、今ではホラー映画やラノベにまで用いられる一般的なテクニックとなっています。
 更に様々な登場人物の主観を入り混じらせて”視点”という概念を生み出したヘンリー・ジェイムズなど、19世紀末のリアリズム後から20世紀モダニズム作家は、この書き言葉の欠陥を前提に作品を作っていて、既に我々読み手もその手法に慣れ親しんで、意識する事無く自然に受け入れています。

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 さて話を元に戻しましょう──人頭獣体のミノタウロス──ダンテは13世紀から14世紀の詩人でモダニズムから遠い人物です。しかしダンテに限らず、名作や古典が読み継がれ、語り継がれる中で誤読や誤解は何度も繰り返されてきました(場合によっては写本の書き間違えがそのまま伝承される事も)。無論、一部聖典の原理主義者が意図的な捏造やミスリードを繰り返してきたのも事実でしょう。
 しかしこういった長い歴史の中で書き言葉の欠陥が文学の幅を広げ、現実に文学と言うジャンルが(独裁国家や検閲国家を除き)廃る事無く広まってきたと考えられます。
 ここからは私の私見とはなりますが、優れた作家と言うのは古典派やロマン派、更にモダニズム以降の作家に至るまで書き言葉の欠陥をよく理解し、それを十分に活用できる作家ではないかと思います。
 それと、様々な人の、様々な”本の読み方”もある意味、壮大な創作と変わらぬ価値があるのではないでしょうか?ここ最近のビブリオ創作もそう言った側面があるのかもですね。
 では今宵はこの辺で(・ω・)ノシ

拓也 ◆mOrYeBoQbw

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