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「ハンナ・アーレント」

原題:Hannah Arendt
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
製作国:ドイツ・ルクセンブルク・フランス
製作年・上映時間:2012年 114min
キャスト:バルバラ・スコバ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア、ユリヤ・イェンチ
公開日:2013年10月26日

 この映画のreviewはかなり難しい。映画評に留まらず個人の政治観や思想に触れる為、どこまで紹介していくか。
 短い字幕日本語訳に入りきれない哲学思想が全編に繰り広げられ、訳の補助無しで観られる人の他は字幕への集中を要する。

 以下公式H.P.から彼女についての引用(*全引用ではnoteが通常の3倍のvolumeになりそう)「1906年10月14日ハノーファー生まれ。社会民主主義者のユダヤ人家庭で育つ。14歳時に読んでいたカントとヤスパースをきっかけに、哲学を学ぶことを決心。マールブルク大学でハイデガーに哲学を師事。フライブルク大学でフッサールに、ハイデルベルク大学でヤスパースにそれぞれ哲学を師事。1933年、ゲシュタポに短期間拘束された後、パリに亡命。ユダヤ人青少年のパレスチナ移住を支援する組織「ユース・アーリヤーYouth Aliyah」の資金調達活動に携わる。1940年ギュルス強制収容所に連行されるが脱出。1941年、母マルタと夫を連れアメリカに亡命する。1951年にアメリカ国籍を取得、同年に英語による著作「全体主義の起原」を出版してセンセーションを巻き起こす。プリンストン大学やハーヴァード大学などで客員教授を務めた後、1959年にプリンストン大学初の女性専任教授に就任した。」

 アイヒマンはアルゼンチンに逃亡していたがイスラエル諜報部に拉致されイスラエルで裁判を受けることになる。アーレントは1961年アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴するためイスラエルに渡航。1963年アイヒマン裁判のレポートをザ・ニューヨーカー誌に連載したことで全米に激しい論争を巻き起こす過程がこの映画だ。彼女自身についてはほんの少し回想シーンを入れる程度で詳細に描かず、裁判に向かい、その結果を出したことへの一般社会の反応とそれに対する彼女の態度が映画の中心になる。

 彼女自身もユダヤ人として拘束され振り返りたくない過去がありながらも、個人を越えて学者としてその裁判方法に問題を含む公判を傍聴することを選択しており、決して行動に引き立てたものはユダヤ人としての「当然」でも「興味本位」でもない。
 ニューヨーカーに掲載された年でも解るよう、スクリーンの中でも彼女は言葉一つ一つを吟味し中々原稿は進まなかった。無防備な言葉が地雷になることを重々承知で出した練り上げられたレポートであっても社会に受け入れられず、長年の友人まで失う。

 反論記事内容は彼女が敢えてそれに応える水準ではないとして沈黙を続ける中、大学において講義の形で社会の反論に答えるシーンは圧巻。

「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです。(略)アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように。」

 ユダヤ人である彼女は社会が望む表現は知っていた筈だ。「捕らえたアイヒマンが非情な人間、或いは悪の権化であって欲しかった。そうでなくては収容所で命を落とした人が救われない」これがほぼ全体の意見だった。
 アーレントが択んだ「悪の凡庸さ」は、歴史から学ぼう、同じ間違いをしない為の提示だが、いつの時代もそうであるよう沸騰した社会情勢の中では冷静な考察はあまりにも異質になる。

 カウチで横になった時も、講義風景も映画の殆どのシーンで彼女の指先には紫煙がある。基本、私は煙草は苦手というよりも嫌いだ。それでも、彼女と煙草の関係はもう仕方ない、と諦めるというより納得してしまう。毅然とした彼女はとても美しかった。
★★★★


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