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「人造才子」に花束を ―ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』―

 整形美女を題材にしたフィクションは色々とある。例えば岡崎京子氏の傑作漫画『ヘルタースケルター』がいい例だが、どういう訳か整形美男の話はなかなか見かけない。女性にとって外見が自身のアイデンティティの根拠となる事が多いのに対して、男性は立場や能力がアイデンティティ形成の元になる事が多いようだ。
 もし仮に『ヘルタースケルター』の男性版の物語を作るならば、それはおそらくは「能力主義神話」がテーマになるだろう。そして、その決定版である傑作はすでにある。それがダニエル・キイス氏の小説『アルジャーノンに花束を』だ。

 まずは寄り道をする。『史記』の李斯列伝には、ネズミのエピソードがある。斜陽の楚国の小役人だった若き李斯は、便所で人間相手にビクビクして生きているネズミたちを見た。便所を出て、穀物庫に入ると、傍若無人でビクビクせずに穀物を盗み食いして肥えているネズミたちがいた。李斯は悟る。
「人間の存在価値なんて、このネズミ連中みたいに居場所次第で決まるんだなぁ」
 さらには、日本昔話の「ネズミの嫁入り」がある。年頃のネズミ娘は、理想の花婿を求めて様々な異種族(というか、無生物の擬人化だが)の「男たち」に会いに行くが、結論は「自分と同じネズミが一番良い」になった。
 この二つのエピソードからは、成り上がりに対する戒めの匂いが感じられる。さらには、現代の整形美女フィクションもまた、主人公の「肉体的・視覚的成り上がり」に対して厳しい展開が珍しくない。

 さて、私は『ヘルタースケルター』からの連想で『アルジャーノンに花束を』を再読した。このSF小説は、善良な人柄で知的障害者のアメリカ人男性主人公チャーリー・ゴードンが脳外科手術を受けて、純朴さの喪失と引き換えにズバ抜けた高知能を得る(というか、高知能を得る代償として、人並みの傲慢さをも得てしまう)が、後に知能が下がって元の木阿弥になってしまうという一種の栄枯盛衰譚である。この「人造美女」ならぬ「人造才子」の話は、キリスト教の「原罪」の概念あってこそ成り立つのかな? 私はそんな疑問を抱いたが、これが儒教文化圏の非クリスチャン作家が書いた作品だったら、ちょっと様子が違っていたかもしれない。
 確か、お釈迦様の弟子の一人に、知的障害者らしき人物がいたっけな?  周利槃特しゅりはんどく(チューラパンタカ)か。多分、この人はイエス・キリストや預言者ムハンマドの弟子にはなれても、孔子の弟子にはなれないだろう。何しろ、儒教思想における「君子」の条件の一つに教養レベルの高さがあるからなぁ…。しかし、老荘思想だと、かえってチャーリーのような人たちに対して優しいかもしれない。
 私は邪推する。ひょっとして、『ヘルタースケルター』などの整形美女フィクションといい、この『アルジャーノンに花束を』といい、成り上がり者に対する戒めの意味があるのだろうか? 似たような(?)話として芥川龍之介の『鼻』があるが、あちらは「普通以下」が「普通」になる事によってかえってバカにされる世知辛い話だ。かく言う私自身も似たような経験がある。私はかつていじめられっ子だったが、小学校時代にシングルマザーだった母親が再婚して私自身も苗字が変わったら、ますますいじめがひどくなった(ちなみに私がいじめられるようになった発端の一つは、校内で出回っていた「自閉症疑惑」である)。しかし、私の母親の再婚は決して玉の輿なんかではなく、あくまでも一般家庭に収まるものに過ぎなかった。それでも、いじめっ子連中にとっては私はただ存在するだけでも十二分に「生意気」だったのだろう。

 さて、私は以前、何かの本に「『アルジャーノンに花束を』を読んで『感動した』と言うのは野暮だ」という発言があるのを読んだが、これはどういう意味なのだろうか? 感動する事自体が野暮なのか? それとも、わざわざ感動を言葉にするのが野暮なのか? まあ、そもそもこの批評に対してツッコミを入れる事自体が野暮なのかもしれないが、解せない事には変わりない。なして?

【氷室京介 - Dear Algernon】
 氷室京介氏はこの小説からヒントを得てこの曲『Dear Algernon』を作ったそうだが、歌詞は特に小説とのつながりはなさそうだ。


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