男神誕生 ―酒見賢一『童貞』―
今回の記事は短編小説の感想である。その小説は酒見賢一氏の短編集『分解』(ちくま文庫)に収録されている『童貞』だが、これは表向きには夏の禹王をモデルにしている。しかし、私が思うに、主人公〈シャのシィのユウ〉は本質的に、バビロニアの男神マルドゥークの分身である。多分、冲方丁氏の『マルドゥック・スクランブル』のシェルや桐野夏生氏の『東京島』の森軍司は、そんなユウの「子孫」か「生まれ変わり」だろう。
ユウは村の革命児だった年長の男が非業の死を遂げた事により、村を支配する女たちやその他村人たちを皆殺しにし、出奔する。脚が片方不自由になりつつ放浪するユウは、〈テュシャン(塗山)〉という部族に迎えられ、過去に見かけた美しい女を自らのものにする。〈テュシャンの娘〉はユウに対して「憎むような目で見るのをやめなかった」。
しかし、私は思う。〈テュシャンの娘〉はユウを値踏みしていた。そう、彼女はユウの故郷の女たちよりもはるかに狡猾でしたたかだった。ユウの故郷の女たちはユウの外見的な魅力しか認めなかったが、それに対して〈テュシャンの娘〉は、ユウが「自分にとって本当に有用な男か」どうかを測っていたのだ。いわゆる家父長制の世の中においては、女は自分がうまく立ち回るための「必要悪」として、自らを「ずるくする」のだ。そうでなければ、男にかなわないどころか、他の女たちにもかなわないのだ。きっと、ユウの故郷でも、女同士のかなり凄絶な争いがあったに違いない。
女を蔑視するユウは、その蔑視ゆえに、〈テュシャンの娘〉という「女神」にして「魔女」の恐ろしさを知らなかった/見抜けなかった。男を立てる女は、男に対して「吸血鬼」になり得る。ユウは貪欲な〈テュシャンの娘〉の哀れな犠牲者であり、それゆえに〈テュシャンの娘〉はユウの故郷のいかなる女たちよりも優位に立つ。他の女たちにはない「美」によって、〈テュシャンの娘〉はこの小説に登場する他の全ての女たちよりも優位に立った。
表向きには〈テュシャンの娘〉はユウの「犠牲者」であるが、彼女は「男神」ユウを自らの「美」によって虜にした。女たちに反抗したユウは、結局は別の「女」に囚われたのだ。「長幼の序」や「男女の別」を定めるユウだが、彼に「従う」〈テュシャンの娘〉はユウの故郷の女たちよりもはるかに「男」を惑わす手練手管に長けていた。
「テュシャンの娘は自らの下腹をそっと押さえて微笑んで聞いた」
「テュシャンの娘は女である自らの微笑を向けるだけで、それに答えることが出来たのである」
その微笑みが意味するのはすなわち「合格」、婚活女子〈テュシャンの娘〉は、稀に見る超上玉の男をゲットしてほくそ笑んだ。
…とまで邪推でもしておかないと、納得出来ない内容である。正直言って、女である私にとってはつらい内容である。ユウの女性嫌悪はその出自ゆえに仕方ないが、そんな彼は〈テュシャンの娘〉の美貌に目がくらんで、童貞を捨ててしまった。彼は「聖杯の騎士」にはなれない。なぜなら彼は、自らの聖杯を打ち壊して捨てたからであり、新たに得た「聖杯」である〈テュシャンの娘〉は恐るべき毒杯だったからなのだ。そう、彼女は本質的に、ユウの村にいた〈太女〉と同じ存在である。
ユウが得た〈テュシャンの娘〉は、韓非子の言う「君主の妻/母」である。彼女が自らの下腹をそっと押さえて微笑んでいたのは、自らの将来を予想して満足したからである。彼女は新たな〈太女〉になる。この小説の世界観においては、彼女こそが最初の「君主の妻/母」なのだ。
【Madonna - Like A Virgin】
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