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「金色の暴君」橘カラ ―山崎紗也夏『サイレーン』―

 私はメインブログで何度となく『ウマ娘』版オルフェーヴルの人物像の設定を批判しているが、それはあくまでも、史実のオルフェーヴルのイメージとかけ離れた人物像だからである。インターネット上でのオルフェーヴルについての様々な記事を読んでいる限りでは、実馬の方のオルフェーヴルは「項羽の皮を被った韓信」という印象である。しかし、ウマ娘オルフェーヴルの人物像には、現時点では項羽的な要素しかない。
 むしろ、曽田正人氏のバレエ漫画『昴』や伊藤悠氏の歴史ファンタジー漫画『シュトヘル』のヒロインたちの方がよっぽど「ウマ娘版オルフェーヴル」のイメージにふさわしい人物像だと、私は思う。どうせオルフェーヴルを「傲慢な性格」の人物像として描くのならば、彼女をギリシャ神話のアラクネや前述の韓信のような人物像にしてほしかった。正式にウマ娘化された「決定稿」における彼女の「生まれついての帝王」イメージは、本来の「金色の暴君」オルフェーヴルとは違うと、私は思うのだ。

 それはさておき、私は自作小説の参考資料として、かつて講談社のモーニング誌に連載されていた四つのサスペンス漫画の単行本セットをアマゾンで注文して再読した。そのうち一つが、山崎紗也夏氏の『サイレーン』である。私がこの『サイレーン』を含めた四作品を取り寄せて再読したのは、それぞれの重要人物として登場する「ダークヒロイン」たちの人物像を確認するためである。
 山崎紗也夏氏は、かつては小学館のヤングサンデー誌でいくつかの連載作品を執筆していた。そのうち『マイナス』はカニバリズム描写のあるエピソードが含まれていたので、当時の小学館は問題のエピソードを収録したヤングサンデー誌を自主回収して話題になった。しかし、私はこの騒ぎが意図的な炎上商法だったのではないかと邪推している(何しろ、別の出版社から問題のエピソードを収録した「完全版」単行本が出ているのだ)。何しろ、今はなきヤングサンデー誌は、他にも新井英樹氏の『ザ・ワールド・イズ・マイン』や山本英夫氏の『殺し屋1』などの問題作を売り物にしていたのだ。
 ヤングサンデー時代の山崎紗也夏氏は、かなり尖った作風だった。その山崎氏はモーニングで『はるか17』の連載を始めたら、ヤングサンデー時代から一転して、健全で一般受けしやすい作風に変わっていた。ヤングサンデー時代の山崎氏の絵柄は、ヒロインが猫のような目つきの鋭いものだったが、『はるか17』では以前より柔らかい印象の絵柄に変わっていた。多分、単なる画力の向上だけが理由ではない。ヤングサンデー時代よりも一般受けする必然性ゆえの意図的な変化だろう。

 問題の『サイレーン』には主役クラスの登場人物たちが三人いる。メインヒロインの猪熊夕貴いのくま ゆき、その恋人である男性警察官里見偲さとみ しのぶ、そして「ダークヒロイン」たちばなカラである。妖しい魅力を放つ謎の美女カラは、猪熊の「正義感」に惹かれて彼女に近づく。
 猪熊は両親と二人の兄たちも警察官という家庭で愛されて素直に育った「純粋な正義感」を持つ人物である。あまりにも健全な環境で生まれ育ったがゆえに、邪念がない人物である。私が思うに、ゲームアプリ『ウマ娘』のプレイヤーの分身である女性トレーナーは彼女のような人物だろう。多分、男性トレーナーの場合も「彼女」と大差ないと思われる。その『ウマ娘』の女性トレーナーは猪熊のように愚直な善人だが、それに対して私は橘カラという女からある人物を連想した。
 そう、「あの」ウマ娘版オルフェーヴルである。
 私はいつしか、橘カラという女に対して『ウマ娘』版オルフェーヴルの面影を重ねていた。「彼女」は現時点では育成ウマ娘としてはまだ実装されていないが、『ウマ娘』の世界観においては基本的に正真正銘の「悪人」並びに「悪女」は出てこない。しかし、私は猪熊とカラの対立構造から、『ウマ娘』のプレイヤーの分身としての女性トレーナーとオルフェーヴルの関係性を想像した。あのゲームの女性トレーナーは、猪熊のように愚直な善人だが、私は自分の分身としての女性トレーナーに対しては感情移入出来る。しかし、『サイレーン』ではカラに感情移入する。
 あまりにもお人好し過ぎるメインヒロインと、自分自身以外は誰も信用しないダークヒロインの対決。仮に私が作者であれば、メインヒロイン猪熊をフェミニストに設定し、ダークヒロイン橘カラを「女の敵は女」を自明の理とする「アンチフェミ女子」に設定したい。あまりにも善良過ぎる猪熊よりも、自らの悪や狂気に対して正直なカラの方が、私にとっては感情移入しやすい。まあ、私自身は曲がりなりにもフェミニストを自認・自称しているけど、他のフェミニストの女性たちの「カマトト」「偽善者」ぶりに対しては少なからぬ不信感や嫌悪感があるのだ。

 女性である猪熊がカラの人物像に対して何の疑いも抱かなかったのに対して、男性である里見の方がカラという女性の危険性に対して早くから勘が働いたのは、多分「女の勘」なる通説に対する風刺だろう。猪熊は自らがあまりにも善良過ぎるがゆえに、終盤の危機でようやっとカラの恐ろしさを知るが、里見は猪熊よりもずっと早くカラの恐ろしさに気づいた。
 橘カラのような恐ろしい女性キャラクターは、他作品にも色々と出てくる。例えば、野阿梓氏の『ソドムの林檎』に登場するベトナム人美少女超能力者ゴー・ティ・ビンや、冲方丁氏の『マルドゥック』シリーズに登場する金髪碧眼のお嬢様ノーマ・オクトーバーがそうだが、彼女たちは敵をいたぶるのを楽しむ「根っからのサディスティン」である。野阿梓氏がティ・ビンを普通に「サディスト」とは呼ばずにわざわざ「サディスティン」という女性形で呼んだのは、おそらくは彼女の残忍さが自身の「女らしさ」に由来するのを暗示しているのだろう。
 それに対して、『サイレーン』の一部の読者は橘カラという女性を「元男性ではないのか?」と推測した。普通の女性以上の身体能力といい、終盤で猪熊を監禁して拷問する際の口調といい、どことなく「男性的」な印象があるからだというのだが、そこで私が連想したのは『ゴールデンカムイ』の家永カノである。カラの一連の殺人とは、家永と同様に「相手が持っているものを自分のものにするため」だった。もしかすると、他ならぬカラ自身が家永のモデルの一人だったのかもしれない。

【Evanescence - Sweet Sacrifice】


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