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映画と場所についての論考(仮題)④:『映画と経験 クラカウアー、ベンヤミン、アドルノ』

ミリアム・ブラトゥ・ハンセン著、法政大学出版局、2017

 映画を観ることについての考察の準備として映画理論の書籍をいくつか洗う。といいつつも主題として挙げられる3人の著書についてはベンヤミンの『複製技術時代の芸術』のみ既読。最近日本語訳化されたクラカウアーの『映画の理論 物理的現実の救済』は近日中に読みたい。

 ドイツの辿ってきた映画に纏わるモダニティの歴史について無勉強ながら読み進める。100年を超えた映画史においてドイツではファシズムの台頭、その渦中にいた3人の映画理論は映画という枠組みを超えて社会の様態を語るのは同著でもいくつか名前の上がる近代建築など別ジャンルの動向と重なっていたというのは必然のことであったのかもしれない。つまり本書の概要でも描かれている通り、映画とは何かというよりはむしろ映画は何をするのか、という問い。どのような役割を果たす可能性を持っているのか、について議論が重ねられていく。

 クラカウアーの章では、高級映画館(ピクチャー・パレス)について「「気散じ」を与えるという唯一の目的のために都市部の大衆をピクチャー・パレスに惹きつけている外見上のきらびやかさを「純粋な外面性」」としてブルジョワ階級に対する軽蔑の意を含めながらも文化的に重要であるとし、そして「映画館は、社会と観客自信にたいして新しい公衆と新しい形式の集団的な主体性を可視化してくれる」と述べられている。またアドルフ・ロースの『装飾と犯罪』を挙げつつ「大衆装飾が体現しているのは自己批評的な理性を描いた合理化であり、脱神話化の過程の途中で停止してしまうことで資本主義的な合理性に特有の抽象性と神話がもつ虚偽の具体性のあいだに囚われたままにとどまっている」という。そしてクラカウアーにとって映画館がモダニティの微であるのは「相対的に不均質で、不明確で、ほとんど理解されていない集団性の形式としての大衆が《公共性》の新しい形式を構成するもっとも進んだ文化施設をなしているのが映画館であるから」とし、「見知らぬ人たちが映画上映会に観客として集まるとき、そこで人々は相対的に匿名的でありながらも集合的な受容と美的判断の行為に関わるのであり、そのなかで遊戯という様態において自分自身の経験を認識し動員することができるのである」とする。ここで私がキーワードとして挙げたいのが「公共」といった言葉たちだ。映画を観る上で観客たちに求められる「公共」とは何か。現代のスマートフォンで映画を観ることが出来る時代に、映画を観ること自体に「公共」はあるのか。ベルリンという都市について「装飾が撤去された」ファサードに私たちは生きているのか。

 映画を観ること、それ自体に場所性と空間性が保持されているのではないかという自分なりの仮説はベンヤミンの章で触れられている考察が参考になる。ここでは近代建築との共通点を挙げながらそれは気が散った状態での集合的受容をともなう芸術形式とし、そして「われわれが日常生活で建築物へと入っていくやり方は、それ自体が「使用することと知覚すること」という二重の様相によって、空間を移動していく身体と、視覚(聴覚)をつうじて空間を走査する身体によって規定される」という。前述のスマートフォンは身体が拡張された装置として位置付けるとするならば使用し、映画に携わる。またここでも映画館のもつ公共性について「映画のもっとも重要な集団的空間とは、少なくともかつては作品の上映と受容がおこなわれる場所である。すなわち公共空間としての映画館であり、映画を見にいくという行為であって、それは技術によって媒介された近代特有の集団的感覚経験として、映画の受容を、文学や演劇、美術の受容からきわめて明確に分離されている」という。最後に「もしも事物をより近づけ、いわば<用具的>にしたいという大衆の欲望が、今日では携帯電話で映画を鑑賞するという慣習によって典型的に示されているとすれば、映画的な観客性の現象学はアウラ的な経験とますます新和していく」と述べる。ここでのアウラ的経験は「まなざしが返されることを期待すること」「技術的な複製可能性や集団的受容とたんに相反するものとしてではなく、非対称的に交錯しあうものとして思考する」

 アドルノの章(映画美学について)は個人的に響く部分は少なかったが、映画が視覚的な音楽(無声映画の時代に既に広まっていた)という前提をあげつつ、インターネットやデジタル技術をつうじた映画に対する観客の自由度の増加が音楽の演奏における即興や偶発的な推移といった可能性と同じではないと述べた点は興味深かった。

 最後に冒頭に述べた『映画の理論』のプロジェクトに取り組むクラカウアーへと戻る。映画経験について、シネフィルが映画館に行くことは意識の支配からの解放、アイデンティティを暗闇によって喪失し、そして映像の中に身を侵したいという欲求があるとした上で、これは「より身体的な前意識的・潜在意識的な領域において、観客を映画のなかへと引き寄せるとともに、観客である自己を統合するというよりも解体するよぬあミメーシス的な自己同一化の形式である」とする。また50年代に隆興するテレビについて、映画と観客がテレビに移行したという事実こそが、「まさに映画が延命する能力を備えていることの証左」であるとし、それは「映画がもつ潜勢力はいまだにまったく組み尽くされておらず、映画の隆盛の助けとなった社会的な諸条件は実質的にはなおも変わってはない」という。これら議論を受けて筆者は最後に新たなメディアによって動画文化が変容した現在の「映画経験の利点とは何だろうか」という問いを立てる。それは「暗くされた劇場空間における投影を中心とした映画という《装置》」に対して、「小さかったり極小だったりするさまざまなメディアを横断するようにして映画が拡散し、テレビゲームやデジタル・アートのインスタレーションの中で映画的な処刑式が異種混淆化することによって《装置》の境界は穴だらけで不安定なものになった」という新しい示唆を持って本書を終わる。

 映画を観ることについて私が考えたいことは筆者が最後に述べたことに繋がるのかもしれないと感じた。つまりクラカウアー、ベンヤミン、アドルノらが映画史の初期から2度の大戦を経験しつつ映画に対してその意義を論じてきたことの延長線上に位置するのではないか。自分で言いながら厚かましくも思うが、個人的な欲望が映画理論史においてどういう価値を持つか、という自信にも繋がった。同時にその全体像はとても広大だということも分かった。まだまだ勉強が足りないので一歩づつ学び、再びこの本を手に取りより詳しく把握していきたい。


おわり。


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