見出し画像

映画と場所についての論考(仮題)③:『視覚文化「超」講義』

『視覚文化「超」講義』を読む。

 映画を観る主体としての観客の視点、総じたメディア史について勉強。

 映像作品に対するアート対エンターテイメントという対立について、それぞれ「レギュレーション(規則群)」として違いがある、としている。その作品に対してどのような文脈で語られるか。重要なことは「レギュレーション」に対する働きかけを考えることと挙げている。教養主義の歴史を紐解きながら書かれている。Lecture.2 ノスタルジア/消費にて、ディズニーランドの消費を経験としてパッケージ化していく動きを前述とし、

エンターテイメントとアートをすっぱり分けて「癒しや懐かしさの快感を伴うエンタメはよくないものだ。苦痛を伴うものこそが教養だ」と考える人は、他方で「癒し」「懐かしさ」に耐えるエネルギーを持っていないという見方もできるわけです。

p98

続くLecture.5 メディエーション/ファンコミュニティでは

ポピュラー文化、エンターテイメント作品は「これは由緒正しいものである」という態度を基本的にとりません。それは現在のものとして常にプレゼンテーションされ、常に現代にリブートされる存在です。

p287-288

とそれぞれ挙げている。

 「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバス」はその斬新なアニメーション(一人のキャラクターに別のフレームレートを与えて、映画とは異なるコミックのコマ表現を再現したり、キャラクターによって紙やパステル調など異なる質感を与えた)に対して、ハイカルチャー、アート性などを感じ得ない。しかし、スパイダーマンというキャラクターの性質上、エンターテイメント、ポピュラー文化の象徴でもある。(もちろん映画が持つ商業性という前提は言わずもがな)SNSや映画レビューサイトのコメント欄(批評家などを別とした主に一般観客による)を眺めるとその難解さに付いていけない人もいるようだ。それについて否定するつもりはないが、この映画に関わらず、映画に対して観客は何を求めるのか、どちらか一方を求めて観に行くというのは上述の耐えるエネルギーを持っていない、または放棄することに等しいと言える。というのも製作者側は明らかにそれを意図して作っているので、その映画の魅力を存分に味わう、という点で勿体無いのではないか。勿体無いというと貧乏臭いが、少なくとも作品の楽しみ方に様々な視点での深みが存在するということは常に頭に入れておきたい。


おわり。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?