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しんどかったらおいで、が居場所の合図。

振り返ると、そうだった。
いままで私を受け入れてくれた場所の人は、みんなこう言ってくれた。

・・・・・・

一番昔で覚えているのは、小学校2年生のとき。
文脈は忘れてしまったけど、「放課後でもいいから家で何かあったら学校に来なさい、先生も一緒に謝りに行ってあげるから。」と担任が話していた。
当時は、そんなことしないでしょ、と思っていたけど、いま思うとあれはもしかしたら子どもの命を救うかもしれない一言だった。
私が小学校時代を過ごしたのは、虐待なんて普通に耳にするような、荒れた街だった。

その頃は、私も親の言うことすることが全てだと思っていたし、それを疑うこともなかった。
でも、もしあの時私が異変に気づいていても、あのクラスは居場所として機能してくれていたと思う。

家が居場所でなくなったのはいつからだろうか。
言われてみれば昔からずっとそうだったかもしれないけど、耐えられなくなったのは、中学に入ってからだった。
自身の異変が顕著になったり、周りに支えてくれる人が出てきたりして、家の環境で具合が悪くなっていることを認めざるを得なくなった。
当然、最初は親に対しておかしいと思ったことは口にするようになった。
それでも親にとってはいままで従順だった子供が急に生意気に口答えするようになって、学校が何か吹き込んだと思ったのだろう、状況は悪化するだけだった。
学校に行くのもつらかったが、家にいる方がよほどつらかったので、学校には行った。

高校に上がってから、拒食になった。
ついに体育の時間に、ブラックアウトして倒れた。
担架で保健室に搬送された。
1時間後には、担任が迎えに来た。
保健室の先生は、特に私の希望を訊くこともなく、「もう1時間休ませます。」と言った。
1時間休んだら授業に戻るか早退して家に帰るか、というルールはもう関係なかった。
保健室の先生たちは、私の異変に気づいていた。
「しんどかったら休みにおいで」「辛かったらいつでも戻ってきていいからね」と言って、送り出してくれた。
それが今日限りの話ではないことは明白だった。
そこから卒業まで、保健室は私の大事な居場所だった。

拒食は、いつの間にか過食に転じた。
拒食のときよりずっと、食べ物も、食べることも、醜いものだった。
人前で食事ができなくなった。
昼休みの教室にいることもできなかった。
昼休みは図書室の奥の机で勉強して過ごした。
放課後も、クラスの人たちが駄弁っている教室にはいられないし、家にも帰りたくないので、図書室に行った。
司書さんは、「いつも図書室を使ってくれてありがとう、何か困ってることない?また待ってるね」と声をかけてくれた。
開室時間外も、こっそりいさせてくれた。
いつ逃げこんでも、受け入れてもらえる居場所だった。

そのうち、図書室と同じ動線に職員室がある体育科の先生たちに、声をかけられるようになった。
きっと、私の言動の矛盾から、過食に気づいていたと思う。
それでも、決してその話題は口に出さなかった。
ただ、お弁当を持って、昼休みは体育科の職員室で過ごすことになった。
それならほとんど他の生徒と会わなくて済むし、先生たちはみんな快く受け入れてくれた上に全く無理強いしなかったから、とりあえず言われるがままそうすることにした。
廊下ですれ違うと、「ひなた〜今日ももちろん来るよね?」と声をかけられ、赤子を誉めるかの如く「すごい!」「えらい!」と口々に言われているうちに、いつしか一口、二口、と職員室でなら食べられるようになった。
昼休みの保健室はけが人が多くやってきて騒がしいし、図書室もなぜ昼休みの最初から最後までいるのかと他の生徒に疑問に思われることもあった。
だから、昼休みにそうして匿ってくれる居場所があったことで、午後も何食わぬ顔で教室に戻ることができた。

それから、高校の時は、子供を支援している団体が開いているスペースでも過ごしていた。
土日も、夜遅めの時間も開いていたから、食事や入浴、睡眠以外の時間を過ごす家のようなところだった。
塾に通うようになっても、学校に行って保健室やら図書室やら職員室やらで過ごしているくらいなのだから、案の定行けなくなる日が増えた。
その時は、塾に行っているふりをして家を出て、そこのスペースに通った。
その場所の職員さんは、塾に行けとも、行かなくていいとも言わなかった。
ただ、私が塾に行けないことと、行ってない分自分で勉強していることを、見守ってくれていた。
時には家の話をすることもあった。
「ひなたちゃんにとって安心できる場所だといいな。またいつでも来てね」と言っていた。

・・・・・・

高校を卒業してから、一気にいままでの居場所を失った。
一人暮らしができる状況にもなく、家に閉じこめられる日々。
そんな中、唯一の救いとなったのが、親に黙って通い始めた精神科だった。
主治医は「つらかったらいつでも来ていいからね」「また待ってるね」と声をかけてくれた。
実際私は予定外のことが極端に苦手なのでお言葉に甘えて予約外で駆け込んだことはないものの、その言葉だけで気が楽になることもあった。

そして、私の事情を知って、家に泊めてくれる友達もできた。
その友達の口癖は、「つらかったらうちにおいで、大丈夫だから。」
当然、物理的な居場所でもあるけど、その言葉が精神的な拠り所になって、自分の家を生き抜く盾になっている。
ただ、その人にはその人の生活や人間関係があるし、いままでの職業としての支援ではなく個人の善意によるものだから、葛藤はある。
いくらいつでもいいよと言ってくれていても、年末年始は帰省してしまうかもしれないので、押しかけるわけにもいかない。

もう一箇所、最近、精神科のワーカーさんに、支援団体に繋いでもらった。
週に1回、も行けていないが、なんとなく高校のときの居場所のように過ごしている。
今日、年末年始の話をした。
いつもとは違う不規則なスケジュールになるが、「家にいるのがつらくなったらおいで」と言われた。
いままで、たまに顔を出しつつもずっと疎外感を感じていた。
でも、今日、その一言で、ここって私のいていい居場所なのかもな、と思った。
私はその何気ない一言が、涙が出そうなほどあたたかく、嬉しかった。

・・・・・・

その一言に込められたパワーは、いままでの経験にもとづくものだと思う。
家にいるのがしんどいので居場所を、というのは本来精神科での打ち合わせの通りだし、しんどいからそこに行くというのはある意味当たり前のことでもある。
それでも、振り返ってみると、いままで私が居場所として過ごせてきた場所は、過不足なくこの姿勢を伝えてくれていた。
だから、この一言は、私を受け入れてくれる居場所の大事なサインなのだ。

年末年始。学校も、精神科も、友達も、一旦離れなければならない。
昔から、死にたすぎてどうしようもなく、布団にしがみついてとにかく早く社会が通常運転に戻るように祈るしかない期間だった。

今年は、もう少し前を向いて年を越せるといいな。

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