わたしの失恋の精神分析

0.はじめに

実はわたしは、1年ほど前に、相思相愛で5年間付き合い結婚目前であった恋人と破局している。

彼に対する気持ちが一区切りついた感覚があったので、破局からいまに至るまでの己の心のありようを振り返ってみた。
すると、わたしが破局の事実を受け入れたプロセスは、とある論に近いことに気がついた。

あなたは、キュブラー・ロスが提唱した、「死の受容」プロセスをご存知だろうか。

ここに、死を宣告されたひとりの患者がいるとする。
彼は、死の宣告に対し、まずはじめに「そんなはずはない」と否認し、次にその運命に対して「なぜわたしが」と怒り、「〇〇さえすればよくなるのでは」と取引をしかけようとし、それでも逃れられないことに絶望して抑うつ状態になり、それらの段階を経てはじめて自らの死を受け入れられるようになる、というものだ。

この論になぞらえて、わたしの失恋の受容プロセスを振り返ってみよう。

1.否認期

まず振られた直後、「これは、もろに受け止めたら発狂する」と直感した。
鋭利すぎる事実からは一旦目を背けなければ、とにかく外側から「大丈夫」で埋めなければ、おそらくわたしの自我が崩壊してしまう。

「大丈夫、お互い生きていれば、縁があればまた道が交わることもあるから」と自分に言い聞かせ続けながら、弾丸旅行やら日光浴やらタンバリンシャンシャンやら、とにかく気分転換に効果がありそうなことを片っ端から試し、気分に関わらず義務的に「食べる」「寝る」を遂行した。

その結果、破局に対する破滅的な反応は完全に抑圧し、一見明るく元気に活動的に過ごすことができているものの、元恋人の話を振られると明らかにフリーズしてパフォーマンスが低下する…というような、そんな状態で日々を過ごした。

2.怒り期

そんなさなか、異動で元恋人と同じ場所で働くことになり、毎日顔を突き合わせなければならなくなってしまった。

なぜだかわからないが、とにもかくにも奴の顔を見るだけでイライラした。

わたしを振ったくせに。何をのうのうと仲良さげに話しかけにきているんだこいつは?
わたしの目の前で、ふたりで新婚旅行で行こうと話していた場所に、職場で知り合ったばかりの同僚を誘って楽しげに計画を立てるなんて何を考えているんだ?
なんだ?この、ノンデリカシークソボケ無神経野郎は。なんでわたしはこんな奴のことが好きだったんだ?
意味がわからん。

正直もう顔も見たくなかったが、わたしを傷つけたのだから、彼にはわたしのために役立ってもらわなければならない。その義務があると思った。

なので、あるときは観光データベースとして、あるときはわたしの心身のキャパシティをよく把握している客観的な第三者として、またあるときは頭脳のついた筋肉の塊として、必要に応じて都合よく彼を利用させてもらった。

3.取引期

別れて9ヶ月が経過した頃からか。
突然、「問題があったのは、相手ではなく私のほうではないか」と思うようになった。

私は機能不全家庭で心理的虐待を受けながら育った。
付き合っていた当時から、養育期に親から得られなかった「助けを求めたら応えてもらえる」という感覚を元恋人から常に得たいという願いがあること、またその不健全さを自覚していた。
親でもない人間にそれを求めるのは不当だ。それが分かっていたから必死に抑圧したけれど、「いつも我慢している」という事実が不満となって胸に積もっていた。「私はいつも我慢しているのに」という気持ちが常にあり、さらに相手が「僕には言語化能力がないからなにもわからない」などとぬかし改善のための対話を拒否したため、最終的には泣きながら怒ることしかできなくなった。

でも、彼はいつだって、自分のできる範囲で手を差し伸べてくれていた。それなのに、どうしてそれを素直に喜べなかったんだろう。ふたりの関係を壊したのはわたしではないか。

ちょうどそのように考えるようになった頃に、私は己の生きづらさに向き合う覚悟を決め、虐待の傷を癒すためのトラウマケアカウンセリングに通い始めた。

カウンセラーに付き合っていた時のことを話すと、「いや〜…それは相手もちょっと…どうかな〜」というような反応を受けたが、わたしは強固に「自分のせいだ」と思い続けた。

振られてから、元恋人に対して恋愛感情を示唆する身体反応が起きたことは一度もない。ただ、一緒にいる時に心身に安らぎを感じるだけだ。
それでも、「やっぱりあの頃が幸せだった、わたしの生涯の伴侶は元恋人しかいない。トラウマ治療が進んで親からの愛への渇望が少しでもましになれば、きっとまた元の関係に戻れる」と考え、うっすらと復縁を望むようになった。

4.抑うつ期

復縁したい気持ちを自覚したわたしは、わがままなのを自覚しつつも復縁を打診してみた。
だが、断られた。

わたしが戻りたくても、あちらにその気がなければどうしようもない。
これ以上わたしにできることは何もない。無理やり相手の気持ちを動かそうとしても離れていくだけだ。
だからこの気持ちは、ぐっとこらえて呑み込むしかない。

わたしはいま、孤独だ。それを痛感して、悲しくて、淋しくて、やるせなくて、夜ごと涙を流すようになった。

そんなある日。
わたしは心理療法を受けていた。

トラウマケアの心理療法で、「安心できる場所を思い浮かべ、想像の中でインナーチャイルドと対話する」というワークがある。
わたしが「安心できる場所」として思い浮かべることができるのは、その全てが元恋人と手を繋いで訪れた場所だと突然気づいた。
でも、元恋人と手を繋いで新たな場所を訪れることは、きっともうない。

「元恋人の隣が、私にとって世界でたったひとつの、何があっても大丈夫だと心底安心できる場所だったのに、もう彼はいないんだ。もうどこにも、心から安心できる場所はないんだ」

ワークの途中でそう気付いて、涙があとからあとから流れた。

「相手に気持ちを押し付けても、困惑させるだけでなんのプラスにもならないことがわかっているから、なにもできない。風化するまで抑圧して、なんとか封じ込めて過ごすしかない」と泣くわたしに、心理士さんは「相手の気持ちとか、伝えたらどうなるとかいっさい考えないで、今の気持ちを、想像の中で口に出してみることはできますか?」と優しく言ってくれた。

わたしの気持ちは、

出てこないように必死で閉じ込め、押さえつけ、目を逸らし続けていたほんとうの気持ちは、


「だいすき。ぎゅってして」


それだけだった。


その瞬間、

別れてもう1年も経つのに、ずっとずっと透明な気持ちを大切に抱きしめ続けているわたしという存在が、とてもけなげで、愛おしいものに思えた。
同時に、たとえこの気持ちをそのまま伝えることがなくても、抑圧しなくていい。ちょうどいい形に落ち着くように共存をはかっていこう、と素直に思えた。

5.そして受容へ

それからほどなくして、彼と話す機会が訪れた。

わたしは、彼に、この先どういう関係になりたいと思っているのかを話そうとした。

ーーこれからも知的な意見交換をしたい。もし彼が病気になったら見舞い、支えたい。でも正直、緊急連絡先になることを切望してはいないし、家計も同一にしたくない。

あれ?これなら友人でもよいのではないか。どうしてわたしは復縁したいんだ?

そう己の心に問うと、

(ぎゅってしてほしい。わたしが世界で一番安心するのは、この人の腕の中だから。)
という答えが返ってきた。

……………そういうことか〜〜〜。

彼との関係性は友人でいい。強力な理解者であり、話も趣味も合う、得難い友人だ。
一方で、わたしは彼の人格を無視して、「抱きしめ行為によって機能する、世界でたったひとつのアタッチメント付与マシーン」としての役割を勝手に彼に課していたらしい。

「だいすき。ぎゅってして」はつまり、「(人間としてとーっても)だいすき。(それはそうと、)ぎゅってして(わたしに帰属感と安心感を与えて)」ということだったのか。

う、う〜〜〜〜〜〜〜む。
これは、けなげというよりも図々しいな…。
でも、正体がわかったことでスッキリした。

以上をふまえ、

・人間としてとっても好きであるから友人として関係を継続していきたいこと
・それはそれとして、あなたからのハグを切望しているので負担のない範囲でつきあってほしいこと
・とはいえハグが負担で交流が消滅するほど悲しいことはないので持続可能な形を探っていきたいこと
・無理なら無理と言ってほしいこと

を伝えたら、「ハグは負担なので嫌」と言われた。判断が早い。

「誰か他の人に適当にぎゅってしてもらえばええやん。同期の女の子とか」
「誰でもいいわけちゃうねん」
「それもそうか」

縋るような気持ちではなく、さっぱりした気持ちで話す。
もう大丈夫だ。
この人と恋人に戻ることはないけれど、きっとこの先長い付き合いになるだろう。そう思えた。

6.おわりに

ここまで、長い文章におつきあいいただきありがとございました。

「死」に限らず、とても精神的ショックが大きいこと、つまりトラウマの受容は、みなこの形を辿るのではないか。そんな気がする。

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