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神様がくれた宝物【1】

今日は初めてのプライベートの投稿をします。
私の宝物のスーパーヒーローの話です。

私のスーパーヒーローの名前は【Kちゃん】と言います。
Kちゃんとは昨日最後になるかもしれないお別れをしました。それに際して、自分の成長のため・より幸せになるために私の中で大きな決断をしたので決意表明として残したいなと思ったので今書いています。

長くなるかもしれませんが(Kちゃんがもし見ててくれたら「長すぎて疲れたわ〜笑」と言われるかもしれませんが)最後まで見ていただけると嬉しいです。


出会い

Kちゃんとの出会いは、忘れもしない2017年12月15日。ちょうどその時の私は、2017年11月31日に北陸地方の病院でのパワハラで悩まされ続けた長期出張での仕事を終え、12月1日に北陸から実家の四国への長距離運転、12月2日に祖父の突然の死、その約1週間後 関西の元の支店への帰任と新しい大学病院への赴任(私の当時の仕事は製薬会社が新薬を開発するにあたっての病院で実施する治験を支援する会社に勤めていました。新しい担当の病院は自宅から片道2時間程電車でかかる病院でした。)を経てすぐのことでした。

パワハラ

2017年6月末からの長期出張先では、私へ引き継ぐ予定であった社員が私の赴任日当日から精神疾患で来なくなり引き継ぎなしの状態から出張がスタートしました。お昼ご飯を食べるだけで怒られたり(私が赴任する少し前までは水飲むことさえ許されずにトイレの手洗い場の水を隠れて飲んだりしていたらしい)CRCの待機場所の部屋内で 一日中理不尽なことで四六時中怒鳴り狂って次々と精神疾患の社員を出すようなパワハラ上司のおかげ様で大好きで楽しくて仕方なかった治験コーディネーター(CRC)の仕事が精神的に辛いなと思ってしまっていました。ドクターや患者さんと接している時間が唯一の楽しい時間でした。

今まで仕事が原因で泣くようなことはありませんでしたが、結局精神的に辛くなり、毎日通勤中の車内で泣いてしまうほど追い詰められてしまったのと周りの同僚の方達も疲弊しているのが見え(私は大型案件のためのヘルプで出張していましたが、周りの先輩方は地元の方ばかりで上司に盾をつくと仕事を失う可能性があったこと・周りの方々は子供がおり生活がかかっていたこと・その上司以上の管理職は県外の人しかいなかったためパワハラを告発できる人が私しかいませんでした。)勇気を出してずっと私を可愛がってくださっていた前の支店の支店長へ相談し、当時の支店の支店長へ相談という形で上司のパワハラを告発しました。

その後の事情聴取で同僚の方々も正直に話してくれ、パワハラをしていた上司は退職となりました。しかし、その上司はサービス残業(昼休みなしの夜10時まで仕事をしてもネット上は17時30分定時退勤にしていました)を強制するかわりに本人が人一倍仕事に厳しく、本来は休日の土日も毎週仕事に来るような人でCRCとしては一流で仕事のできる人でかつ 西日本で案件の受注数が1.2位を争うほどの病院をたった4人(ふつう2倍は人がいる)でしていたのでどう考えてもブラックな環境を作っているのは会社だよなぁ、、とか、40歳すぎて独身の上司だったので今後の生活大丈夫かなあ、、とか、私は15連勤とかだけどこの人は月に1回とかしか休んでないくらい頑張ってたのに、、とか色々と考えてしまい、周りの先輩方には告発したことを感謝されてもなお自分がしたことは間違えだったのではないかと何度も自分を責めてしんどかったです。

関西に帰ることが決まってからは、同僚の人が退職する上司の代わりに私を踏み台にして自分が出世しようと当時の支店の副支店長2人にでっち上げを色々と言われたおかげで最後に私がその副支店長達にいじめられてボロボロでした。笑

長期出張に行き始めからストレスでなのか風邪をひいてない時がないくらい常に体調が悪い状態でした。長期出張の最終日は朝から何もしてないくても手の振戦がなぜか何度も止まらなくなったのを覚えています。

別れと出会い

当時の私には別の彼氏がおり、ずっと長期出張中には関西と北陸で遠距離恋愛をしつつも、彼には絶対的に私とは別れなければならない理由があったので支えてくれた感謝をしつつも恋愛にも疲れてしまっている状況でした。お互いの幸せのために当時の彼とはKちゃんとお付き合いをする直前に別れました。

また、帰任する少し前のタイミングで不祥事があり、管理職がガラリと会社全体で変わりました。管理職の社員を駒としか思ってない扱いや時間外労働月60時間を超える長時間労働などのブラックな労働環境、頑張って担当施設との人間関係を形成しても会社の利益にならない赤字施設は事情構わずどんどん切り捨てていく(社員に給料を払ったり会社の成長のためには必要なことも、あるとは分かっていますが医療は社会貢献の役割もあるので利益だけを追求するのはどうなのかなと)会社の方針に日頃の不平不満が募り、10月?頃から退職者が関西の支店だけでも月10人は止まらず、12月には月20人以上は辞めてました。

そのため、どこの病院も辞める人の皺寄せがすごく残った人の仕事量や責任が倍くらいになった。私も大学病院を初めてほぼ自分ひとりが常駐(普通2〜3ヵ月くらいするところを退職者が2週間くらい引き継ぎしてくれた。10年目とか管理職レベルの短さ。)・初めての部位の癌で案件は癌案件ばかりで癌案件自体ほとんど経験なかったのでとにかく責任感に押しつぶされそうなのと、自分の見落としで患者さんが死なないかの恐怖でとにかく不安だったのをすごく覚えています。

またまたパワハラ地獄

経験的に未熟すぎてダブルチェックのために人員補充を何度も副支店長にお願いしたところ来てくれたグループ長がまたまたパワハラ体質が素晴らしかった。自分の10年以上の経験で、ドクターが作成し診断した書類を自分の独断で修正したりする不正が止まらなくて、管理職にも関わらず作成した資料をモニタリングする製薬メーカー担当者とは何度も喧嘩になるわ、施設の看護師さん達とも喧嘩するわの板挟みと、その不平不満で待機室では他の薬剤師さん達もホワイトボード越しで聞こえる大声で毎日ボロ雑巾のように罵倒されました。。とほほ

この頃は元々人の悪口を言うことが大嫌いな私が、辛すぎて我慢できず毎日のようにKちゃんや電話で母に話を聞いてもらっていました。人を悪く言ってしまう自分が嫌で嫌で仕方なくもありましたが、そうすることで心の辛さを軽減したり、休日の度にKちゃんと京都や観光地・2人の趣味の美味しいお店の開拓をする・毎日一緒にご飯を食べたりしょうもないことで笑って過ごすことで心を保っていました。今思い返してもあの時Kちゃんがいなければ、元々比較的ポジティブな私でも鬱病になってただろうなあと思うと感謝してもしきれません。

病魔はすぐそこへ

するとその疲れで免疫力が下がったのか、防寒具とマスクを外出時は徹底し感染予防で手洗いもしていましたが、2018年2月にインフルエンザにかかってしまいました。

インフルエンザで39度近く熱があっても「インフルエンザで休まないといけない社則はないから。」と言われ、家で一人で熱と戦いながら一日中PCを開いて仕事をしていたのを昨日のことのように覚えています。それでも「もっと責任感持ってよ。」など、、鬼のようなラインが止まらなくて恐怖でした。
グループ長が私より数日早く土日にインフルエンザにかかり、同じ日から休んだにも関わらず私だけ責められ続け理不尽さが拭えませんでした。。

担当の患者さんは癌の方々と希少疾患の方しかおらず、感染症が命とりにもなることを分かりながら、型的に軽かったグループ長は2日ほどで復帰し、医療従事者としての人間性を疑ってしまいました。
結局熱が続いたのと関節痛と倦怠感が軽減せず、ベッドからも起き上がれず食事もできずに過ごしたり、タクシーで点滴を打ちに近くの病院に行ったりとして5日間ほど休んで熱だけが下がった状態で仕事に復帰した時にはいつものグループ長の罵倒と一緒に副支店長にもコテンパンに毎日怒られて辛い毎日でした。


長くなりすぎたのでこれで【1】は終わりとします。
遅い時間になってしまったので、残りはまた明日【2】にて。
長い長い【1】を読んでくださりありがとうございます。


aki

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