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「ゆきゆきて神軍」———ニューギニア戦線で起こったこと———戦争責任。

 沖縄市のドーナツカフェで映画もするという小さな映画館(シアタードーナツ)で、「ゆきゆきて神軍」が上映された。そこへは行かなかったけれども、U-NEXTで35年ぶりに見た。
 太平洋戦争でニューギニアへ派遣された独立工兵第36連隊主力の約600名うち米軍の捕虜となって生還した者が確認できる範囲で8名いた。そのうちのひとり、奥崎謙三という将兵の戦後の姿を追ったドキュメンタリー映画だ。
 
 私は映画以前に、この帰還兵のことを、父から教えられていた。
 私の父は、職業軍人でもないのに、20代のほとんどを軍隊で過ごさざるを得なかったが、ただの一度も、いわゆる戦地には行っていない。彼は、国内のいくつかの隊で技術者として、写真・暗号・風船爆弾製造などに携わったと聞いている。だから、奥崎謙三が経験したような戦場を知らない。にも関わらず、いや、だからなのか、奥崎謙三の主張にすこぶる共感していたようだ。
 「天皇が最大の戦犯だ」と父はことあるたびに言っていた。子どものころから何度聞いたかわからない。ときおり、学生時代の集合写真を手にとっては、こいつも、こいつも、みんな戦死してしまったと、私に説明した。もっとも仲がよかった親友の戦死は、かなりショックだったらしい。
 父は奥崎謙三の著書『宇宙人の聖書』や『ヤマザキ、天皇を撃て』を、家族に読むことを勧めた。それで、私は奥崎のことを知った。

『宇宙人の聖書』表紙

 父はいわゆる左翼でもなく、まあ、多少リベラルなオヤジであった。それほどの学がある訳でもなく、技術屋さんとして零細企業を起こし、後継の手立てをすることもなく、病気で亡くなった。そんな多少リベラルな親父でさえ、「天皇が最大の戦犯だ」と考えるに至ったあの戦争と戦争責任の追求がきちんとなされてこなかった結果が、今日のこの国の為体につながっている。戦死者の6割が餓死と栄養失調による体力低下での結核やマラリアなどの感染症だということがはっきりしているにも関わらず、現状で、食糧の自給さえままならない状態で、武器弾薬に金を注ぐのが、この日本の政府である。 
 
 映画「ゆきゆきて神軍」は、ニューギニア戦線での悲惨な状況とその出来事の真相を究明しようとする奥崎謙三を追いかけたものだが、相手がはっきりとした証言を、真実を語らないことに苛つき、暴力的になる奥崎謙三に目を奪われていたら、かつての将兵たちのボソボソとした物言いの端々に、戦地での将兵たちが置かれた状況が、いかに悲惨であったかに気づかずに終わってしまう。

奥崎謙三
 1920年、兵庫県生まれ。第2次大戦中召集され、独立工兵隊第36連隊の1兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣される。ジャングルの極限状態のなかで生き残ったのは、同部隊1300名のうちわずか100名。1956年、悪徳不動産業者を傷害致死、懲役10年の判決。1969年、一般参賀の皇居バルコニーに立つ天皇に向かい「ヤマザキ、天皇を撃て!」と戦死した友の名を叫びながら、手製ゴムパチンコでパチンコ玉4個を発射。懲役1年6か月の判決。戦後初めて天皇の戦争責任を告発した直接行動として衝撃を与えたが、マスコミ等の報道や裁判審理過程においては、その主張の本質は徹底的に回避される。1972年、〝天皇ポルノビラ〟をまき、懲役1年2か月の判決。1981年、田中角栄殺人予備罪で逮捕、不起訴。1983年、元中隊長の息子に発砲。1987年、殺人未遂等で懲役12年の判決。

映画公開時資料より

 私は戦後ほどなく生まれた世代なので、両親が戦争時代体験者である。したがって、直接話を聞くことができたし、戦争体験を時には武勇伝として、親と同年輩の人から聞くこともあった。ニューギニアでの飢えと、生き延びるためになにが行なわれたかということも、「ゆきゆきて神軍」を見る以前から、体験者から聞かされていた。映画では、奥崎謙三に追求される何人かが、決して口にはできない事柄として言葉を濁したことでも、人によっては武勇伝の様に大っぴらに語る者もいる。たまたま私はそういう人に出会ったので、よく聞かされた。それでも、自分がそうしたというより、そういう話を聞いたといった言い方ではあったが……。生き延びるためには仕方なかったんだよとの言葉を添えつつ……。
 石川県の母方の祖母は、ときどき、「どうせ死ぬるなら、こんね(この家とか、自分の家という意味)に帰って死ぬればいいものを……」と、息子の死を嘆いていた。戦地で結核に罹患し、宮古島にあった陸軍病院で、戦後まもなく大量喀血で亡くなったと聞いた。
 母の実家は浄土真宗の小さな寺であったが、その後継として母の姉の元へ婿入りした夫は、結婚後程なく召集され帰っては来なかった。どこでどう亡くなったのかも不明のままである。
 
 私の子どもの世代になると、もう、直接その様な体験を聞く機会はほとんどない。今回沖縄市のシアタードーナツでの上映を実現したこの映画館の代表者も、子ども世代、つまり奥崎謙三から見れば孫ほどの年齢ということになる。映画上映時に行なわれたトークショ出演者は、もう少し若い世代のようだ。
 彼らがこの映画をどんなふうに受け止め、奥崎謙三についても、どのような評価をしたのかには興味がある。

学校を卒業後写真関係の企業に就職後、ほぼ1年くらいのちに召集された。
昭和13年「千葉市の気球隊」へと記載されている。(父のアルバムより)
父の実家は横浜南吉田町。伊勢崎町に隣接している辺り。(父のアルバムより)
入隊が決まると町中で祝った様子が、窺われる。(父のアルバムより)

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