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とりとめのない日々を綴る DAY14~先輩とはなす昼~


先輩とランチ

前回話していた、先輩とランチをしてきた。
とても満喫した時間を過ごせた。
先輩の職場の苦労を聞くだけでなく、わたし自身の近況や悩みも聞いてもらったのでありがたい。
会社に在籍していたころは、わたしは結構バリアを張っていたので、実はこの先輩とプライベートで食事をするのは、ほとんど退職してからだ。

共通する苦しみや悲しみを持つと、俄然関係は深まるものだが、先輩ともまさしくそれだった。
その環境から脱出してしまったわたしができる共感は、現在進行形のそれでではないけれども。
10年以上同じ職場で働いてきたけども、初めて知ることもある。
この会で、パートナーがいることも初めて教えてくれた。
結婚についての考えや、パートナーとの将来の在り方、現状の在り方などの考え方も。
たぶん、同じ職場で働き続けていたらきっと知ることはなかったと思う。
わたしは、同じ職場でかつそれが同じ職種であればなおさら、余計な個人的情報を得たくないと思う性質みたいだった。
もちろん、やはり5年のうちに20人も(あらゆる理由ではあるけど)退職者の出る職場で、言語化できない皮膚で感じる重たい情報量にすでに自分が限界だったのもひとつの理由としてはあるんだけども。
これ以上、情報は要らないっていう。

多分、感情とは別に進める過程というものがどの仕事にもあるだろうけど、あまりに一個人としての認識を持ってしまうと、その人に同化しすぎて本来その人がやる仕事であっても、面倒な気持ちなどを察して先んじて済ませようとしたり気を使いすぎて自分が死ぬ未来が本能的にわかっていたからだと思う。

そういうのは優しさにならないのがほとんどで、健全な関係は築けない。
「お互い様」の精神が少しずつ歪になっていくからだ。
わたしは、前職で心理的安全性というものがまるで築けなかった。
というより入社当初は多少なりともあったものがすり減っていってしまった。
そもそも職場の心理的安全性って、いち被雇用者が構築できるものではないし、するものでもない。
ただ、わたし自身がわたしに対して他者(職場)に対して安心を期待するというものをあまりにも大きく持ち過ぎたのかもしれない、と今は思う。
自分の自分に対するゆるぎない価値観(会社や他者がそれぞれの尺度でもつ評価というものと自分の存在価値というものは別物で、マイナスなことを言われようが自分という価値は傷つけられないし損なわれないというもの)が、不安定過ぎて、迷子で、だからわかりやすい指標(職場から与えられる存在意義)を求め過ぎたような気がする。

まあ、これを気づけたのもやはり、問題の職場から離脱し、かつ1年以上「はたらく」ということから距離を置けたからなのだと思う。

この先への自分の思いの迷子とはたらくことへの意識

実は、これを書いている途中で、生活に進展があって、これはまた別の記事で書こうとは思っているんだけど、この時点では自分が会社員として復帰するのか、それ以外の生き方を進むのかまだまだ迷っていた。
先輩には自分がまた会社員に戻ることへの不安や、実家に暮らし続けること、はたらくことへの気持ちの在り方などの迷子な気持ちを聞いてもらっていた。

「なんか、自分の勝手な気持ちだけど、どっかの田舎で急に草染めに目覚めたので、染色家に弟子入りします!とか、自由にはっちゃけてほしいけどな」と面白い励ましをもらった。

正直、たしかに面白そうだとは思う。

ただ自分の中に確かに存在する「現実的な自分」は、その先を具体的に想像できないと否定してしまう。

というより、多分「これだ!!!」というものに出会ってしまったとしたら、それが草染めでも陶芸でもなんでもいいけども、わかりやすい安定的な職業でなかったとしても自分は飛び込んでいく可能性はなくもない。

飛び込めるという思いと機会があればそうするかもしれない。

けど、その行動の根源にあるひらめきや情熱なり、どんな表現にするにしろ熱量みたいなものがなければ、「この先」というものが具体的に描けなくて不安だけ大量発生してしまうのは目に見えてる。

そもそも、熱量もないのに面白そうだけで進んで自分に合わなかったからそこで絶望してしまう。熱量があれば、それさえ与えられた課題として対処しようとするだろうし(たぶん)。

この年齢になるまで、「現実的な自分」が自分を生かしてきたのも事実だし、わたしはこれを否定する気はない。
ただこの父性的な側面の強さに反して、「何を言われようがどんな状況になろうが大丈夫、なにも自分という存在価値を揺らがせることはないし、守ってあげる、受容し、肯定する」という母性的側面が自分には圧倒的に欠け過ぎていたんだと、ふと思った。

このアンバランスさが、自分という存在意義を時に深く、常に一定して傷つけてきたんだと思う。
そこから生まれる常にある理由のない不安や、他者からの態度や言葉に実際に対面する前から強い恐れを抱くのは、HSPでINFJとしてのカテゴリー的性質だけでなく、自分が今まで積み重ねてきた経験によって育った学習的性質も大きく関わっている。
「現実的な自分」を強くしないと生きられなかったという学習だ。

先輩と職場の愚痴をからめて、働くことについての気持ちの交歓をしながら、私自身、そういうつもりもないし真面目でもないつもりだったのに、無意識レベルで「求められるものを真剣に返そう」として、そしてそれがあまりにも生活の中の意識の多くを占め過ぎているのではないかと思った。

だって、社会的批評というものを無視できないのが「現実的な自分」だからだ。

「はたらく」あり方によってきっと気持ちの構えは違うけど

多分、職人としてはたらくときの「はたらく」の気持ちの構えと会社員としてはたらくときの「はたらく」の気持ちの構えは全然ちがう。

同じだと思う人もいるだろうし、断定的に言いたくはない意識は私自身強いんだけど…これは、わたしの「はたらく」についての気持ちの在り方だから他者は関係ないんだ。

わたしが誰かの「はたらく」上での気持ちの構え方を否定できないように、他者もわたしの「はたらく」上での気持ちの構え方を否定することはできない。
会社側が求めるものはあるだろうし、その指標に合わなければ否定してくるだろうけど、それとわたし個人が「はたらく」上での気持ちの構えは別物だ。

そもそも多様性とは認めるべきもの以前に、当然に「在るもの」だから、会社側がどれほど同じような価値観を求めようとも無駄だ。
同じものを見据えていても、同じ姿勢ではたらくことはできない、みな別人なのだから。

業務の実績だったり、結果であったり、帰属意識の在り方であったり、「はたらく」場所ではあらゆるものが求められる。
他者から。
なんだかごちゃごちゃして、当時のわたしは混乱の中にいたんだろうな。
今でも自分の中で現時点で明確化できていることの方が少ない。
明確化しても日々が進むと形も色も変わっていく。
ただ、一番大事なのはわたし自身が、わたし自身を慮ること。
一緒に働いている人や環境や会社に対して以上になによりも優先して。
そうじゃないと、そもそも健全な関係とはどんなものに対しても築くことはできないのだ。
そう思った先輩と過ごした濃密な3時間だった。

自分に必要だと思う場所に自分を連れていくこと

この言葉は最近読んだエッセイにあった言葉だ(また紹介したいと思う)。
自分を大切にするということは、そういうことだ。
誰かの期待に応えること、気持ちを察すること以前に(それを習慣的に反射的にしてしまう場合は意識的に)自分にとって必要な場所へ自分を連れていくこと。
この意識を繰り返し自分に唱えることが、これから先のわたしの新しい決意になる。
まだ、生活に変化があったことに先輩に伝えられてない。
もう少し自分の中で気持ちが整理出来たら伝えたいと思う。
今日は、春分の日。
占星術的には、宇宙元旦の日と言われて、今日から新しい1年になるらしい。
春の嵐なのか、外は雪が降っていて2月並みの天気だけども。
今日から新たな気持ちで過ごしていきたい。

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