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とりとめのない日々を綴る DAY16~水槽のなかの自分~


水槽の向こう側の自分

働き出す前の心境というものは、思った以上に静かだった。
緊張しないわけはないけども、ただ、この1年の時間と何十年積み重ねてきた生活の日々のおかげか、すこし新しい場所に参入する際の心模様みたいなものを俯瞰でとらえることができるようになったような気がする。

緊張は、わたしにとっては不安からくるもので。
新しい環境というものは何が設定されているかわからないので(自分で設定できるものでもないし)、未知なものばかりだから当然。
そこが多分気質的に、あまり自分にとっては楽しくない想像が膨らみやすい原因でもある。
その環境を構成するルールであったり、温度であったり、明るさ、音、なにより人間。さまざまなものに体質的にも心理的にも不調を引き起こしやすいなという自覚はあるので、その引き起こしやすい「もの」だったらどうしようかという想像は、具体的に自分の頭を占有していないときも、不安から緊張として何をしていても常に自分のみぞおちに重く滞在している。

ただ、それって、とても確実な言語化っていうものが難しいんだけど、
「こうであったらどうしよう」っていうのは純粋に嫌だなっていう気持ちなんだけど、同時に「こうだったらいいな」というある程度の期待なんかも内包しているというか、表裏一体というか、あるのだと、今回思い至って。
同時に、「期待しない」ことの大切さも気づいた。
もしかしたら、人によっては寂しいし悲しいことかもしれないな。
もうすこし若いころの自分だったら、それは寂しく悲しいことだったと思う。期待できないということに対して、軽く「絶望」もしたと思う。

でも、やはり年齢を積み重ねて生きていく上で様々な人々と交錯していると、他人という生き物は、当然に「わたし」という生き物の考えや理解の範疇外にいるとしみじみ思う。

そして、これはよりわたしの個人的な感覚ではあるんだけど、なにより重要なのことに、どの環境にどれほどの時間身を置いたところで「自分が浮いている」感覚を消し去ることはできないということをこの年でようやくはっきりと受容できたことだ。

そんな自分を、まるで体は水槽の中なのに、視点は常に水槽の外側にあると感じた。
体とそれに付随するこころは、水槽の中なので当然に傷つけられると痛みを伴うのだけど、支店が外側なので「あ、傷つけられてる、わたし」と他人事のような随分と痛みから剥離してる意識がある。
これって一つの防御本能に近いのかも。

水槽の向こう側の自分を受容しても頼りすぎてはダメ


この痛みはこの傷つけられたと感じる事実は別の人間に起きているような感覚を持っておくことで、冷静に対処できるようにしているんだろうと思う。

でも、この剥離が有利に働くのは痛みがまだまだ小さいうちなのだ。

痛みが積み重なっていったり、大きなものだと痛いという主観とどこまでも他人事のような強烈な客観が混同しておかしくなりそうになる。
自分を大切にする場合、多分この主観は客観によって殺し続けてはだめだなと今までの経験上感じている。
というのも、最近わたしには、この客観的な意識を優位にし続けることが自分のためになるのか、悩むことが増えたので。

意味もなく傷つけてくる存在というのはいる

もともと、悲しいことに、話せばわかるとか、時間をかけたら良い方向に関係性が変わっていくと100%信じているほど、他者という生き物に希望がもてるほど純粋でも強くもない。

ただ、そういうことがあること自体は全否定はしないし、やはり、そうであってほしいなと思う気持ちが強くある方だと思う。
やっぱり、自分に優しい人に囲まれたいので。

それは、自分の価値観を全肯定してほしいということではなく、価値観が違っても相手の個人的領域に攻撃したり否定したりしない、多様性を受容するという優しさを持つ人たちが一人でも多くいてほしいという気持ちだ。
好き嫌いまで当人以外の誰かがコントロールするなんてできないし、してはいけない。

前置きが長いが、どう考えても、多分相手のわたしに対する先入観かなにかわからないけど、初対面から「あれ?」と思わせる態度や言動を繰り出す人が、教育係になった。

いま、入社して2カ月経ったくらいか。
気のせいか? もともと不愛想なタイプなのか? わたしという異分子に慣れてないせいか?
と色々と自分に決断を早まらせないようにしていたけど。
途中から、今までの経験上、これって無駄な足搔きだなと思い至った。

小さな会社の地元臭の強い、社員同士がお互いの家族の顔まで認知している濃い人間関係の中で、新人で人間関係もまだまだ構築できていない最弱な地位の相手に、どうしてこういう物言いや態度でいられるのか驚きと疑い。
単純に強いショックだ。
攻撃しなくても十分に弱い相手をなぜ。

あと、この人が上司や先輩にする態度との違いや、上司や先輩がいないところでは、その隙をずっと待っていたように唐突な「指導」という笠をかぶった「ダメ出し」をキツイ口調、にらみつける圧迫のある表情、言いたいことを言い切るための早口でまくしたてられた際は、脳みそが一旦停止してしまう。

この前は、手元の書類の処理に集中したくて流して鳴った電話をスルーしたのだが(受電対応はわたしを含め10人くらいでしていて、基本的に出れる人が出るというスタイル)、それを横目で見ていた教育係に、上司と先輩がいないときだったのですかさず「電話出てください」と言われた。
その表情が楽しそうに笑っていたのを見て、「ああ、これはダメだ」と思ってしまった。
この人、わたしに指導や改善点を言っているという体で、攻撃したいだけだ。

ちなみにこの人自体は、あまり受電対応はしない。

教育係だし、わたしにはその改善点(というよりダメ出し)の良しあしというか、正しいのかどうかも自分の持ってる知識が積み上げの初段階にすぎないのでわからない。
間違ってはないけど、そこまでいうほどのなのかということも含め。
だから、反射的に笑顔で「はい、すみません、わかりました」「気を付けます」と回答はするけど。
表情と自分の感情がどんどんかけ離れていく感覚。
とてつもなく気持ちが悪い。

最近は単純にたくさんの商品知識や接客パターンや、受電における対応や、書類の内容ごとに判断しなくてはいけないシステム入力パターンや、そういったものを吸収するのが憂鬱とかでなく、この教育係と二人きりになる時間が少しでもできることへの憂鬱で会社に行く朝が苦痛でしょうがない。

事務は幅広い種類があるというのは10年以上も経験してきたので実感としてわかっているけれども、想定以上に苦手要素が強い業務が複数存在しているし、それを頑張れるにはやはり教育体制がなさすぎる。
なにより2カ月経過しても私の席は用意されていない状態で、身の置き場がはっきりしない。
(パートの方のPCと席をずっと借りている状態だ)

そもそも多忙な上司のサポート役としてまずは適性をみてみようという形だったけど、多忙な上司は席を外すことも多いし、一番人に教えるのが上手な人がパートの人なので週に3日しかいない。その人のいない週2日や、出勤時間までと退勤時間後の数十分や数時間、上司が席を外した瞬間、自分が指先を冷たくするほど緊張や委縮していることに気づいてから、「これって、もうわたし我慢できる枠ではないところにいるのかもしれない」とじわじわと思い出した。

今までなら、そんな自分を無視してきた。
気のせい、ここで認めたらそのあとの日々がもっとつらい我慢の日々だ、なんて。

でもこれって、未来の自分だけでなく今日の自分さえより不幸にする対応だって嫌というほど学んだではないか。

我慢の限界、ではなくわたしが我慢する枠内の話ではないということ。
まだ「わがままや甘えかもな」と思う自分はいる。
けれど、そこまでしてわたし、何をこの会社で得ようとしてるの?
お金だけだよ。
お金も大事だけど、それってもしかしたら自分を壊す可能性を強めてまで得るべきこと?

水槽の内側の自分を優先する

とりあえず、長年の生存戦略として身に着けた防衛本能はなかったことにはできないけど、痛みを感じる自分のためにできることを自分のためにしようと思う。

今、会社ではある事件がおこって、上層部の人たちはてんやわんやしている。
相手の状況を優先したり、今の試用期間の段階で言っても、入ってきたばっかりの異分子な自分の状況に寄り添いや理解どころか反発心を抱かれる可能性もあると思ってなかなか行動できなかった。
でも、総務の人に、どう思われようが自分のために今自分の状況や不安、改善はできないのかどうか全部伝えるだけ伝えようと思う。

でも、他の人の前で言える内容でないし(教育係は、女性陣のなかのボスのような存在なのでどう告げ口されるかわかったものではない)、別室で時間をとって話すとなると、教育係に変に思われないように時間を取るのも色々と難しいミッションだ。
なんとか数日前から決意して向かうと、該当の総務の上司が突発で休暇を取ったり。
なんどかそんなことを繰り返してる。
もう憂鬱だ。

明日からも憂鬱な一週間のはじまり

明日からも、いつダメ出しを言えるかどんなダメ出しが言えるかという冷えた看守の眼差しを感じながら働く囚人のような気持ちの日々が始まる。

火曜日に別営業所で上司が出張するらしいので、何時間不在にするかも不明。その曜日は、先輩であるパートの人もいない日だ。
憂鬱の極み。

本気で休むかどうか考えてる。
2社経験してきたが、教育係になった人はみんな超絶強烈な人間性の人ばかりだったけど、ここまで本気で休んでやろうかと思ったのは初めてかもしれない。
年を経るにつれ耐性が劣っていくのもあるけれど、今と違って誰かしらまだ周りに気にかけてくれる人もいたし、会社によっては毎週産業カウンセラーと話す機会を設けられていたという環境もあったからだろうな。

わたしは果たして話す機会を得られるんだろうか。
わからないなあ。

ほとんどの人にとって憂鬱な日曜日にどうにも憂鬱な内容になってしまった。
読んでいただいたかた、すみません、ありがとうございます。
どうしても、拙くても読んでる人が理解しづらくても、自分の心情を書き出す行為が必要だったので、今回は特にただ感情の吐露の場にしました。

毎日願ってる事があります。
心穏やかに過ごせますように。
優しい皆さんもそうでありますように。

サポート頂けるんですか???!ありがとうございます! 頂いたサポートは語学等の勉強の教材や筆記具代、あるいは勉強後の休憩のお茶代に充てたいと思います!