富士へ⑨かぐや姫の物語
東京の世田谷区松原にある扶桑教の富士塚を訪れたことから、わたしの「富士へ」の旅ははじまった。
密集した住宅地のなかにひっそりと立っていた小さな富士塚。その近くには、かつてオウム真理教の世田谷道場があった。そこはわたしのヨーガ修行のはじまりの地だった。それから無性に「富士山」を知りたくなって、何年ぶりかに中央高速を河口湖方面に向かった。
富士山の文化遺産を巡り、富士山と富士信仰に関する本を読み漁り、富士山を望むキャンプ場で焚火をしながらいろんなことを想った。そのなかのひとつに、わたしが密かに「かぐや姫とコノハナサクヤヒメ問題」と呼んでいるテーマがある。
富士宮市の「富士山世界遺産センター」を訪ねたとき、「富士の祭神はかぐや姫だった」という展示を見て思わず叫んでしまった。
「え!? コノハナサクヤヒメじゃないの?」
同じ日に訪れた「北口本宮富士浅間神社」(富士吉田市)でも、「富士山本宮浅間神社」(富士宮市)でも、祭神はコノハナサクヤヒメだったし、全国に1300以上もあるという富士信仰の「浅間神社」には、当然コノハナサクヤヒメが祀られている。にもかかわらず富士山の祭神が昔はかぐや姫だったということに、なんだか自分でもびっくりするくらい衝撃を受けたのだ。
かぐや姫は、日本最古の物語といわれる『竹取物語』の主人公だ。竹から生まれた美しい女の子は、成長して月の世界へと帰っていく。それが富士山南麓の富士宮市や富士市などの寺社には、「富士山縁起」という富士山の伝説を記した史料が伝えられ、かぐや姫は月ではなく富士山に登って消えていくという結末になっているようだ。
一方のコノハナサクヤヒメは、『古事記』や『日本書紀』の女神だ。火中で出産する女神として、恐ろしい火山である富士山の祭神となったとされる。
詳しく調べてみると、かぐや姫が富士山周辺で祭神だったのは江戸時代中期頃までで、江戸時代後期には完全にコノハナサクヤヒメに取って代わられてしまい、今に至っている。
この富士山の祭神の交代はなにをあらわしているのだろうか。一般的には、「かぐや姫の没落は仏教の衰退によるもの」だと考えられているようだ。かぐや姫は異世界からやってきて、育ての親が悲しんでも、求婚者が求めてもこの世にとどまろうとせず、再び元の高い世界へ帰っていく。たしかに、現世の欲望を否定して浄土へ往生することを願う仏教と、かぐや姫の世界観には相通じるものがある。
では、富士山からかぐや姫が完全に消えてしまう江戸時代、仏教になにが起こっていたのだろうか。戦国大名たちがすっかり幕府の統制下に置かれたように、仏教もまた幕藩体制の中に組み込まれ、「檀家制度」を通じて体制を根底から支えるようになり、宗教としての生命力が失われていったのだ。わたしたちが知っている「葬式仏教」のはじまりといってもいい。
こうして、かぐや姫とコノハナサクヤヒメ、あるいは仏教の歴史について考えているうちに、ふと、思いついた。
もしかすると、かぐや姫の物語というのは「失われた少女の物語」なのではないか?
オウム真理教をやめてすぐに、わたしはとても印象的な夢を見た。湖の深い底から帆布に包まれた巨大な球体が引き上げられる。その上にくくりつけられている一冊のノート。表紙に書かれていたのは「失われた少女の物語」という手書きの文字だった。
このヴィジョンについては、これまでいろいろ考えてきたが、意味はよくわからないままだった。しかし今、ぼんやりとこんなことを思うようになった。
あのときわたしの意識の深みから引き上げられた「失われた少女の物語」は、江戸時代以前の富士山にあったかぐや姫の物語だったのではないか。それは、わたしたちが知っている今の日本の仏教とはまったく違う仏教、現世に愛着を持たず、高い世界へと帰っていくために修行する、もう失われてしまった仏教をあらわしていたのかもしれない。
最後に、富士信仰におけるかぐや姫の性格を付け加えておこう。
富士信仰のかぐや姫の本質は、大日如来である。そして、人の肉体を持ってこの世に出現し、苦悩を経て、富士浅間大菩薩として衆生を救うとされている。『竹取物語』の輝くような汚れなきかぐや姫とはまったく違って、富士山のかぐや姫は救済者の性格を持っている。
<参考>富士山のかぐや姫については、『富士学研究』Vol.12, No.1 pp,17-37 2014を参照した。
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