瞑想/死
四月初旬、友人が亡くなった。
かつてオウム真理教に出家していた同じ元信者だった。教団を出てからも、ときどき会って話をすることがあった。出家していた者が脱会すると、現世での生活をゼロから再建するところからはじまる。それぞれなんらかの精神的ダメージや喪失感を抱えながら、過去を封印して生きていかなくてはならない。数年たって生活が落ちついてからは、彼女とも近況をメール交換するくらいで、会うことも自然になくなったが、教団が崩壊していく大混乱のときを、同じ場所で肩を寄せ合うように過ごしたせいか、特別なつながりを感じていた。
今年に入ってから、わたしはよく瞑想をするようになった。今になって振り返ると、この変化も、友人の闘病とその後の死と無関係ではなかったのかもしれない。「瞑想/蓮華座」に書いたとおり、座法を組むとすぐに姿勢が固定されて深い意識に入っていく。われながら「いったいなにが起こっているのだろう・・・」と不思議だった。
亡くなったという知らせがあってから、時間を見つけては自室で坐った。
その日、座法を組んだ途端だった。そのとき、瞬時に、あらゆる人の人生の全部がそこにあるのを見た。生活、活動、さまざまな思考、感情、感覚、そういうものの複合体だった。素晴らしく良いものも、普通のものも、悪いものも、悲惨なものも、すべてがそこにある。わたしは湖の底のようなところからそれを見た。見た瞬間、一切が、影のような、夢のようなものだということを知った。もしかすると湖はわたしだったのかもしれない。
ヨーガや仏教では「すべては幻影」「空」だと説く。オウムにいた頃は自分でもよく口にしていたし、指導する立場でそう教えてもいた。でもそれは観念的な理解に過ぎなかったのだろう。この世のどこかになにか確かなものがあるのではないかという期待が、わたしのなかにまだあったのだと思う。人生はそれ自体に意味があるはずだということ。だれもが容易に触れることはできないかもしれないが、幽玄ななにか、秘されたなにかがあるのではないか。わたしがオウム真理教について長年考え続けてきたことも、そんな期待という愛著があったからだろう。
しかし、そこから見ると、なにもないことを知る。ありとあらゆるものは、移ろいゆく影のようなもので実体はない。例外なく、徹頭徹尾、完膚なきまでに、ない、ということ。人生という夢から「はっ」と覚めたような静かな衝撃。そのとき意識は完全にすべてから離れている。おそらく瞑想修行をしていた人なら、生を終えて死の世界に入った瞬間に、自分の人生全体をこんなふうに見て、心の底から「ああ、夢だったんだ・・・」と知るのだろう。
瞑想を終えて、亡くなった友人も今それを経験しているのではないかと思った。
あらゆるものごとは変化する。
生じては滅し、生じては滅しを繰り返している。
例外はひとつもない。
無常。
ゆえに、とらわれるなら、
一切皆苦。
*****
友人の死から二か月が過ぎた。わたしが「こんなことあったんだよ」と、たわいもない話を書いてメールすると、いつも気持ちのこもった長い返事をくれる人だった。best-friend という彼女のアドレスに、もうメールを送ることはできない。それが、ほんの少しだけさみしい。
さようなら、法友よ。
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