見出し画像

シェアハウス・comma /御原 由宇 編

この作品は文芸誌・「文活」のリレー小説シリーズ『シェアハウス・comma』の第7話です。シリーズを通して読みたい方はこちらのマガジンをご覧ください。 

 くらしの、おとがする。

 18:00、起床。ベッドから上体だけを起こし、ベッドサイドに置きっぱなしだった水とプロテインバーを口にする。
 この部屋の遮光カーテンは優秀だから、時計以外に時を示すものはない。夏場はもっと遅く起きて、太陽を避ける。冬場は逆に今より早起きしたりもする。もっと北の地域に引っ越せばいいのにといつか言われたけれど、まぁそれはそのうちと言いながら、もう10年は経っただろうか。
 この部屋からほとんど出なくても、このシェアハウスの中の動きは、手に取るように”わかる”。
 少し前に205号室に入ってきた人、いつも100円玉の音がする。足音は軽快で小回りが利く気配、バイト先なんかではきっと有能な人だ。204号室からは一定のリズム。時折体を引きずって共用部に移動する間も、ずっと続くキーボードの音。おそらくプログラマか何か。206号室は静かでこれといった個性を強くは感じない、けれど足音は205号室の住民のそれよりも小さいから、下の階への気づかいのある振る舞いが自然と身についているような人(206の真下であるこの部屋の住み心地は、206の住民の質と連動するので、正直ありがたい)。101号室は自分でも少し身構えているような硬質な音、けれど101の住民が共用キッチンから奏でる音は鮮やかで、とても食欲をそそる。隣の102号室は物書き業らしいけれど、キーボードの打鍵の音よりも頻繁な奇声に辟易している。時折クレームを申し立ててみるけれど、大抵は大家の「まぁいいじゃないの」の一言で握りつぶされる。
 あとは最近、このシェアハウスに大家見習いが入ったらしいと聞いた。まだ会ってはいないが、よく言えばしなやかで柔らかい、悪く言えば及び腰な足音。足音の軽快さと声の残響から察するに、たぶんまだとても若い女性。ほとんど使わないけれど、たまに調味料を借りる程度に覗く共用部の冷蔵庫に、おすそ分けが入っていたりすることが増えた。Thankyou、と書き置きを残して頂戴すると、また入っている。おかげでここのところ、少し体重が増えた気がする。
 18:20、寝ているときにつけていた耳栓をしたまま、シェアハウスの中でこの部屋にだけ備え付けてあるユニットバスで、シャワーを浴びる。水が渦を巻く音の向こうに、帰宅する人の声。大家見習いと話している。耳が話し声を無意識に拾おうとするのを意識的にシャットアウトして、水流を強める。水音、水音、水音。
 18:40、Tシャツ1枚のまま、うっすらとカーテンを開けてみる。夕焼けを残して沈もうとする太陽の最後の残光に射られそうになり、慌ててカーテンを閉ざす。秋とはいえ、まだ昼間が長くてうんざりする。

 しんとした真夜中と、あの人が、恋しい。

 再びベッドに倒れる。濡れたままの髪もそのままに、もう一度、絶えないくらしの音に、身を任せて、もう少しまどろみをさまよう。とんとん、住民が階段を上がる。こつん、ごん、最後の段でつまづく。このシェアハウスには音が絶えない。リズム、コードの移り変わり、テンション、転調、……脳裏を走るメロディ。

 くらしの、おとがする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 21:00。シェアハウスCommaの大家見習い、白洲彩絢《しらすさあや》は、意を決して103号室のドアの前に立っていた。
 大家見習いとしてこのシェアハウスに住み込んで数か月。ずっと部屋から出てこないことで有名な、このシェアハウスの「主」と呼ばれる人物に、今日こそ会ってみたいと彩絢は決心したのだ。
 ――そして、ある事実を確かめたい。
 それで、先日の住民たちのパーティの残りのバターケーキを片手に、103の部屋をノックしたのだ。
 こんこん、こんこん。

「あのー……」

 反応がない。しばらく待ったけれど、全く応答がない。
 こんこんこん、こんこんこん、こん。

「やっぱり、ダメか」

 彩絢が肩を落とし、くるりと回れ右をした瞬間。
 キィィ、と、ドアが細く開いた。
 涼しい空気がひやりと彩絢の頬を撫でたと思った瞬間、――彩絢は部屋の中に引きずり込まれていた。

(――え?)

 部屋の中は暗くて全く様子がわからない。人らしき影が、ぼんやりと暗闇に白く浮かび上がっているだけだ。
 慌ててパニックになる彩絢に、その白い影が肉薄した。突然捕らえられた片腕と背が、意外なほど強い力で、ずんと壁に押し付けられる。バターケーキを乗せた皿が床に転がったはずだけれど、音はしなかった。部屋の暗さに皿の行方は分からない。
 冷たい指に、顎をそっと掴まれた。

「……今日は約束してたっけ? まぁいいや、会いに来てくれたんだ、嬉しいよ」
「っ!」

 相手の顔も背格好もよくわからない。ただ、暗闇の中にぽっかり浮かんだ真っ白な顔がずずぃっと近づいてきて、彩絢は悲鳴も上げられない。相手の顔がうっすら見えてくる。驚くほど真っ白い、大理石の彫刻のような整った顔に、つるりとした頬。生き物なのか、幽霊なのかもわからない。
 そして、このままだと。

(――、キスされる……!)

 相手がうっとりと目を閉じる。相手の息遣いがわかるくらいに近づいてきて、彩絢はもう無理だと観念した。ぎゅっと目を閉じて、体をこわばらせる。
 そこで突然、ピタリ、とその白い人影の動きが止まった。

「あれ、君、誰……?」
「っと、白洲彩絢です! 大家見習いです! はじめてお目にかかります!」
「大家見習い、あ~、君が。……ああ、ごめんね、人違い。寝起きでぼんやりしてたし、ノックの音の響きが凄く似てたから、勘違いしちゃった。びっくりさせちゃったね、ごめん」

 その人物は彩絢を壁に押し付けていた腕を解いて、彩絢から大きく離れた。ようやく緊張が解けた彩絢は、ふぅと長い息を吐いた。
 真っ暗だった部屋に、電気がつく。ぱちん、と急に視界が明るさを取り戻す。

「あれ……?」

 電気がついたのに、部屋の中はまるで色がなく、白黒の映像の中のようだった。
 ぐちゃりと、持ってきたバターケーキが背後の床でつぶれているのが見えた。その奥には、モノトーンのベッドとサイドボード。黒く大きなデスクを取り囲む、重厚な機材たち。数台のPCとディスプレイ、3段重ねのキーボードが二つ。
 そして、目の前に立つ人物も、白と黒だけに統一されていた。
 つけっぱなしの真っ黒なヘッドフォンが、肩まで伸びた真っ白な髪に埋もれている。陶器のように青白い肌、黒いTシャツに走る白い文字。黒いGパンに包まれた細い脚。
 そして彩絢は、103号室がほかのどの部屋とも全く違う特殊さを有することに、すぐに気が付いた。――以前に理津子さんが言っていた言葉を思い出す。

『103号室はね、他の部屋と違って“特別仕様”なのよ。どう特別なのかは、間取り上はわからないと思うけどね』
『え?』
『いつかあの部屋に入ってみたら、わかるわ。そうねぇ、あの部屋に長時間いるとね、ちょっと気が狂いそうになる人もいるかもね。わたしは大丈夫だし、むしろ好きなのだけど』

 分厚そうな素材でできた部屋の壁には、無数の穴が等間隔に開いていた。
 そうだ、この部屋は何かが違う。空気の流れ? 空調? 違う、音だ。さっきケーキを乗せた皿が転がった時もそうだったけれど、大きな音がほとんど聞こえず、そして響かないのだ。この部屋のすべてが防音壁なのだと、彩絢は直感的に悟った。

「初めまして、新しい大家さん。僕は“ユーミ”……、じゃなかった、103号室の御原由宇《みはらゆう》だよ。よろしくね。これまでも、これからも、このシェアハウスに、誰より長く暮らす人だよ」

 白と黒だけの部屋で、その人は真っすぐに目を開いて彩絢を見て、どこか幼い表情でにこりと笑った。
 血の色を透かす、瞳。
 それだけが、この部屋の中で唯一灯った、色だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その出来事の数時間後、午前2:30。
 場を改めて、共用部の食堂で、由宇と彩絢は真夜中のお茶を敢行することにした。
 由宇は部屋から出てくるのを嫌がったが、先ほどの謝罪の代わりに真夜中のお茶に付き合ってほしいというと、驚くほど素直に、はい、と言ってくれたのだった(もちろん何度も謝ってくれた)。
 あらためて、明かりを絞った食堂で二人は向かい合う。

「真夜中のお茶会って、アリスっぽくていいですね」
「たしかに、そうかも。じゃあ僕は白ウサギだね」

 生まれつき色素が作れない体質なのだと、彼は言った。
 太陽にあたると強く痛みを感じるので、陽光を避けて夜をメインに暮らすようになったこと。瞳はウサギのような、赤を透かす色。肩まで伸びた真っ白な髪。整った童顔は、一見では本当に大理石の彫刻みたいだ。

「ところで、それ外さないんですか? ヘッドフォン」
「うん。僕ね、聴覚過敏気味で。無意識にいろんな音をキャッチしすぎてて疲れてしまうことがあるんだ。だから、ある程度の音を遮断するために、いつもこれか耳栓つけてるんだよね。音楽聴いているみたいに見えて失礼に思われることもあるんだけど、今はそうじゃないから、どうか気にしないでね。このままでも会話には全く支障ないから」
「なんか、情報量多いですよね、御原さん」
「そうだよね、あんまり他人と関わらない生活してるから普段は面倒じゃないけど、初対面の人に会う時には、説明があれこれたいへん」
「今みたいに?」
「そうそう。ただでさえこの見た目だしね。暗いところにいると、幽霊みたいに見えるでしょ?」
「そうかも。夜中に白い影を見たっていう人もいます」
「はは、それ絶対僕だ」

 こぽぽぽぽ、と電気ケトルが湯を沸かす。彩絢は、理津子に分けてもらった紅茶を丁寧に淹れる。真夜中に、フルーツティーの香りがふわりと立ち上る。

「紅茶、理津子さんに分けてもらったの?」
「はい。どうして?」
「僕もそのお茶、時々もらうから。柚子とグレープフルーツがブレンドされてるやつでしょ」
「そうです。美味しいですよね」

 理津子さんは人からもらうばかりで、人にあげるというイメージはあまりない。彩絢からしてみると、由宇が理津子からものをもらうのは少し意外なことだった。

「御原さん」
「由宇でいいよ、なに?」
「じゃあ、由宇さん。由宇さんに聞いてみたいことがいっぱいあるんですけど」
「え、そうなの? どうぞ」
「最初に聞いてみたいことがあって。あの、――こないだ、手紙を、共用ポストに入れていませんでしたか……? 206の人宛の」
「あー、あの名前、206の人なのか。入れたよ」

 持ち主がわからない手紙が206号室に届いた前日、彩絢は見ていたのだ。――午前2:30頃、白い影が共用ポストに近づいて、一通の手紙を入れるのを。
 幽霊か何かかもしれないと一瞬思っていたけれど、彩絢は、住民の消去法から、103号室の住民ーー通称シェアハウスの「主」ー-しかいないという答えにたどり着いていたのだった。

「どうして?」
「理津子さんに頼まれたから」
「……え?」
「理津子さん、いたずら好きだからね。わざと僕に入れさせたがったんだよ。“あなたのそんなところが好きです”ってさ、ちょっとびっくりするような内容を仕込んでね。僕はただのメッセンジャーで、メッセージを書いたのは理津子さん。誰宛か知らなかった。あ、でも僕は206の人が生活音に自然と気づかいができるところはとても好きだから、いつかそう伝えておいて」
「はい、……でも、理津子さんは何でそんなこと」
「さぁ、どうだろう。それは理津子さんに聞いてみたら。理津子さんはいろんなものを見通しているから、きっとその人に必要なタイミングで、必要なメッセージを出したんじゃないかって、思うんだよね」

 由宇は、紅茶が少しぬるくなったところで、ゆっくり口に含んだ。どうだろう、と上目遣いに考えて(少年のように可愛い表情だ、そういえば何歳だ?)、こくんと紅茶を飲み干した。

「で、なんで御原さんは、理津子さんのそんな頼みを聞いたんですか?」
「それは、先月の理津子さんへの家賃だから」
「え、どういうこと?」

 103号室の住民は、情報量が多すぎる。
 彩絢はそう思いながら目の前の人物を見つめる。由宇は、伸ばしっぱなしの白い髪をかき回し、決まり悪そうに彩絢に視線を戻した。

「きみって、その。理津子さんの血縁なんだよね」
「はい、孫ですけど」
「なんかさ、お孫さんには言いづらいんだけど。――僕、理津子さんのこいびとでさ」
「はい。……はい? は? こいびと? こいびとって、あの、恋人ですか?」
「うん。僕がここに住みだしたのが18の時で、その頃から付き合ってるから、もう10年近くかな」

 二の句が継げないどころの騒ぎではない。彩絢は文字通り絶句した。
自分とそこまで年が違わないはずの若者が、祖母の恋人を名乗っている。しかも付き合いが10年近くと。

(でも、……でも!)

 彼はさっき、訪ねてきた人物にすぐキスをしようとしていた。そして、理津子さんは、長時間103号室にいたことがある言動をしていたではないか。

「ほ、本当に……?」
「うん。理津子さんから聞いたことは……さすがにないよね、お孫さんなら」

 由宇は、いきなりなんだかごめんね、とさっきと同じように、困ったように笑った。

「僕はね、理津子さんに、毎月“”を、捧げてるんだよ」

 紗絢は今度こそ完全に沈黙した。
 何のてらいもなくそれを言う由宇は、キモイのか、凄いのか、その両方か。そもそも二人の年齢差を考えると、普通の彼氏彼女といった付き合いの類をはるかに超えていて、彩絢には想像ができない。
 彩絢の紅茶が一滴も減らない中、由宇が静かに紅茶を飲み干す。

「……月に1日、理津子さんが僕の生活に合わせて、時間をくれるんだ。
 僕は一か月の間に理津子さんのことを考えながら作った曲を披露したりとか、僕にできるいろんなことをして、とにかく理津子さんに尽くすんだ。たまには理津子さんと予定を合わせて外出したり、旅行に行ったりもするけどね。
 ……で、その一環で、僕は理津子さんの他愛無いお願いや諸雑用を叶えることもあるんだよ。例えば、手紙を投函したり。そう、大家さんには頼めないことなんかを、ね」

 3:15。夜が一番暗い時間帯へと差し掛かる。
 彩絢はようやく紅茶に口をつけることを思い出した。すっかりぬるくなったけれども、ふわりといい香りが口に残る茶だ。すぐにお湯を沸かして、二杯目の紅茶を淹れなおす。

「……あの、聞いてもいいですか」
「何を?」
「どうして、祖母と付き合おうと思ったんですか。そして、どうして、ここに10年も住んでいるんですか」

 二杯目の紅茶を受け取って、由宇はにっこりと笑った。血の色を透かす瞳が、過去をさまよって、ぴたりと止まる。一点を見据え、紅茶のカップを握りしめて、由宇は表情を消した。

「ちょっと長い話になるけどいい?」
「もちろんです!」
「僕と理津子さんと最初に会ったのは、――きみのおじいさんが亡くなった日なんだ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 秋なのに、夏がぶり返したような炎天下の中を、僕は猛ダッシュした。
 後にも先にも、後先を考えずに太陽の下を走ったのは、あの時だけだ。照り付ける陽射しに色素の無い肌が容赦なく焼かれ、激痛に耐えながら駆け抜けた。日中は必ず身につけるサングラスを忘れた目から、とめどなく涙があふれた。いつもつけっぱなしでないと落ち着かないイヤフォンさえも、どこかで取り落とした。
 それでも、とにかく我を忘れて走った。

 “白洲寛一郎プロデューサー、緊急入院”

 混乱の中、ようやく掴んだその情報だけを頼りに、病院へ走った。どうしても白洲プロデューサーに今すぐ問いたださないといけなかった。
 インディーズバンドで、高校1年の時から活動して3年。有名レーベルとの契約寸前だった。バンドの活動をライブハウスの頃からバックアップしてくれて、デビューの声がけをしてくれたのが、白洲プロデューサーだった。
 けれど、今朝、白洲プロデューサーから電話で直接、連絡をもらったのだ。
 バンドから、ボーカル兼ギターの”ユーミ“(ユウミハラ、で”ユーミ“、が僕のバンドネームだ)だけを外して、ボーカルだけを入れかえてデビューさせるという報せを。
 ――つまり、自分だけがバンドをクビになるという話を。
 そして、その電話は、こともあろうに僕に今後の処遇を伝える途中で、ふっつりと途切れたのだった。
 その後、関係者から連絡をもらって、ようやく白洲プロデューサーが入院したという病院を突き止めた。そして、炎天下を走るという身体的ダメージを顧みることなく、僕は爆走したのだった。18歳の僕には、白洲プロデューサーの状況を慮る想像力も常識もなく。ただただ、夢への道が目前で自分だけ突然、理不尽にぶった切られた現実を、受け入れることができなかったのだ。
 総合病院の受付を走り抜け、聞いていたその病室に飛び込んだ。部屋には、ベッドに寝かされた男性と、その横に一人付き添う、うなだれた、黒く長い髪の女性がいた。

「白州プロデューサー、どうして僕をバンドから外すって……!?」
「あなた、“ユーミ”なの?」
「あ、はい。その、突然すみません、実は僕、白州プロデューサーに急ぎの用事が」

 その女性はゆらりと立ち上がり、つかつかと僕に歩み寄った。そして、不意にきゅっと唇を噛みしめると。
 全力で、僕の頬を打った。
 ――それが、僕と理津子さんの、最初の出逢いだ。

「え、初対面でぶたれたんですか」
「そう。なかなかのインパクトだったなぁ。でも、理津子さんの状況を思うと、きっと大変な心境だったんだと思うんだ。
 ……それで、白州プロデューサーは、そのまま亡くなって」

 通夜にも葬儀にもバンドメンバーと一緒に参列した。
 バンドメンバーにも、僕が離脱させられることは伝わっていたから、とても気まずい空気が流れた。何度問い直しても、僕だけ契約書が準備されていないと、レコード会社から言い渡された。
 僕以外の4人は、白洲プロデューサーから仕事を引きついだ、若いプロデューサーの下でデビューしていった。しばらくは新しいボーカルの圧のある強い声と、ベーシストの技術などがTVやメディアにも少し取り上げられていたけれど、作詞作曲を担当していた僕がいなくなったせいか、バンドカラーは薄れ、やがて音楽シーンからいなくなっていった。

「僕、会社との契約前提で、実家を家出みたいに飛び出したんだよね。だからもう、帰るところもお金も無くなって、公園で寝泊まりとかしててさ。慌ててバイトも探したんだけど、こんな見た目と体質だから、日雇いのバイトはもちろん、接客とかも全然させてもらえなくて、いよいよ本当に困って。
 自分の見た目や体質を恨んだまま、マジ人生詰んだ、このまま死ぬしかないって思ってた時に。……理津子さんから電話が来たんだ」

 白洲プロデューサーの死から数か月後。
 とびが丘の駅から少し歩いて坂を上ったところにある、夜遅くまでやっているコーヒー専門店に、僕は夜半に呼び出された。ほとんど放浪者だったみたいな僕だけれど、その日だけはなけなしの金をはたいてシャワーのあるネットカフェで身だしなみを整え、コインランドリーで服を洗い、耳に突っ込みっぱなしだったイヤフォンを外して新品の耳栓に取り替えて、精一杯身ぎれいにしてから、その店を訪ねた。
 葬儀を終え、四十九日の弔いを終えた理津子さんは、大きくその印象を変えていた。白いブラウスにグリーンの細身のパンツ。白髪染めをやめて、銀色の混じる髪をばっさりとベリーショートにしていたのだ。
 びっくりしている僕に向かって、理津子さんはにこりと笑った。

「あなたの髪が、素敵だなって思って。わたしも素のままでいいかなって思ってね」

 その一言が、僕の心臓をぐらっと揺らした。思い返せば、この一言から、僕は理津子さんを好きになりかけていたんじゃないかと思う。

「きれいな瞳ね。アルビノっていうの? そういう見た目を持つ人たちのこと」 
「そうです。……でも、陽射しは苦手だし、見た目は目立つし、正直、あんまりいいことはありませんよ。アニメキャラとかにはよく使われていますけど、実態とはだいぶ違います」
「そうだったの。もし失礼なことを言ったなら悪かったわ」
「いいえ、大丈夫です」

 人からは気味悪がられる赤く透ける目を、すなわち僕を、理津子さんはまっすぐに見つめてきた。理津子さんのまなざしに、僕の胸の底まで覗き込まれそうで、どきりとした。

「……ええと、御原由宇さん、だったわね。“ユーミ”って呼んでいいのかしら。あらためて、あの夜はごめんなさいね、いきなり」
「え?」
「倒れた夫が何度も“ユーミ”“ユーミ”ってうわごとで呼ぶから。てっきり愛人か何かだと勘違いしちゃって。あとから関係者筋に聞いたら、今一番大事に育てていたバンドのギターボーカルだっていうじゃない。見た目ではあなたの性別もよくわからなかったし、とてもきれいな顔をしていたから。本当にごめんなさいね」
「あ、全然いいです。僕こそすみませんでした、大変な状況の時に、いきなり病室に飛び込んだりして」
「いいのよ。――あのね、夫から最期の伝言を預かっているのよ、“ユーミ”」

 理津子さんは、香り高いコーヒーの湯気の向こうで、大きな目をいたずらっぽく瞬いた。

「ねえ、これからちょっと散歩しない? 夜なら外を歩いても大丈夫よね?」

 その夜、僕と理津子さんは、とびが丘の町をたくさん歩き回った。
 駅前の鳶色のロータリー。ショッピングモール。坂の途中の花屋。理津子さんも通ったという歴史ある小学校。落ち着けるベンチのある公園。
 理津子さんはこの町の出身で、この町の変化をずっと見てきたのだそうだ。町の素敵な場所を一つ一つ、理津子さんは紹介しながら、すたすたと足取り軽く歩く。僕の方が体力が足りなくて、ついていくのに必死だった。
 20分ほど歩いただろうか。そこには、今にも朽ちてしまいそうな、廃屋と見まごう日本家屋が一軒、ひっそりと佇んでいた。

「ここは?」
「わたしの生まれた家。今は誰も住んでないわ」

 理津子さんは、古びた門を押し開いた。雑草だらけの広い庭には、秋の虫たちが大合唱を響かせている。

「子どもや孫に譲ってもいいかと思って、土地を手放さずにいたの。でも、あまり子どもとは折り合いがよくなくて。……夫の喪も明けたし、ここを何か楽しいことに使いたいと思ってね」

 理津子さんはいたずらっぽく笑う。
 けれど、その瞳の奥には、まだ切々とした悲しみがあることに僕は気づいた。親しい身内を亡くして、ぽっかりと、理津子さんの中には穴があいている。それが透けて見える。子どもとは折り合いがよくないと、理津子さんは言った。孤独に飲み込まれそうになることもあるのだろう。
 ー-理津子さんは、今、必死で生き延びようとしているのだ。
 僕は唐突に、そう悟った。悲しみにふさぎ込むことなく、楽しいことを楽しいと感じながら自分の足で残りの人生を歩いていく方法を、理津子さんは作ろうとしているのだ。
 僕も数か月前、夢への道が断たれた。身内との接点もなく、未来もない。形は違えど、僕らは二人とも、突然降ってきた理不尽さに抗いながら、今を必死に生きているんだと、思った。

 ーー気づけば僕は、いつのまにか、横に立つ理津子さんの手を握りしめていた。

 理津子さんは少し驚いたように僕を見たけれど、何も言わなかった。心臓の音、虫の声、遠くの家の空調の室外機が唸る音。湿った呼吸。月の傾き。
 更けていく夜の音がする。

「夫の遺言はね、“ユーミ”」

 理津子さんは僕を見ることなく、まっすぐに廃屋を見つめ続けながら、話し続ける。

「“ユーミを育ててほしい”、だった。それだけ」
「それは、……どういうことですか」
「夫は少ししか意識を取り戻さなかったから、多少、推測入りなんだけど。
 ――あなたの見た目は目立つ。18歳のあなたたちは、あなたをフロントにおいてデビューさせれば、マスコミやメディアにきっと注目される。バンドは売れるかもしれない、けれどね、あなたの見た目を心無い声が叩くだろうと。傷ついて、消費されて終わってしまう音楽にさせたくないんだと、白洲は繰り返し言っていたわ。
 “ユーミ”の才能は、見た目の美しさやちょっと掠れたボーカル、小手先のギターじゃないんですって。白洲があなたたちを見出した時、熱に浮かされたように言っていたのよ。“ユーミ”は、作詞作曲および楽曲作品で、世界を揺るがすミュージシャンになれるって」
「へ……?」
「あなたの将来の選択肢を、ソングライターやコンポーザー、プロデューサーといった、長く活動できる違う形で提案したいと。なのに、夫はその大事な提案をあなたに伝えるところで倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまった」

 そこまで話して、理津子さんはようやく僕の方を向いた。
 僕の方から理津子さんを掴んでいたはずの手は、今や、理津子さんの方から強く握り返されていた。

「わたし、ここを改築して、シェアハウスを建てようと思うの。ユーミ、あなたを無期限で招待するわ。どう? ここに住んで、好きなだけ音楽を作ってみない?」
「でも、僕、今はお金も仕事もなくて」
「家賃の代わりに、毎月何か、贈り物でもしてちょうだいよ。それでいいわ」

 理津子さんの眼が、楽しげに輝きだす。その瞳の輝きは、星より月よりネオンより、真夜中にある何よりもずっと明るい、希望の光のようだった。

「シェアハウスの名前はね、もう考えてあるのよ。“Comma”《コンマ》っていうの」
「コンマ。……ブレスだ」
「音楽用語ではそう、息継ぎ。そう、わたしや、あなたのような人たちに、きっと気持ちの切り替えや、大きな息継ぎは必要なのよ」

 人生は長いからね、と理津子さんは笑った。
 ふわ、と柚子のような爽やかな香りが漂った。これはきっと人生で一番好きな匂いになる、と僕は直感した。
 僕たちはどちらともなく、静かに肩を寄せ合った。
 胸の中に間欠泉を掘り当てたかのように、いとしさが涌き上がってくる。18歳の僕はあまりにも若く、それを堪えきれず、隣にいる理津子さんを引き寄せて、思いのままにキスをした。

「こら。いたずらはやめなさい」
「いたずらじゃないよ、本気だよ。――相手にしてくれる?」
「……さあ、どうかしらね」

 ああ、この人は大人なんだ、と僕は悔しくなる。追いつきたい、並び立つことを許されたい。

「……じゃあ、僕たちが人生の理不尽さにそれぞれ立ち向かうために、お互いに必要な時に手を貸す、っていうのはどう、かな」
「あら、若いのにわかったようなこと言うじゃない」

 理津子さんの瞳は一瞬揺らいだけれど、すぐに冷静さと余裕を取り戻して笑う。

「無期限で招待するけれど。いつか、出て行ってもいいのよ」
「出ていかないよ。ずっといる、たぶん。いつか理津子さんにとって、僕が必要なくなったとしても」
「あら。あなたの方が先にわたしを必要としなくなる確率の方が、ずっと高そうじゃない」
「そんなことはないよ。――それに、必要として必要とされるだけが、恋や愛じゃないでしょ? きっと」
「……なかなか言うじゃない。素敵ね」

 僕がずっと嫌いでどうにかしたかった色素のない髪も、瞳も、理津子さんはただ静かに受け止めてくれる。あまり伸びなかった身長と細い骨格も、理津子さんと並ぶにはちょうどいいはずだ。
 僕は手を伸ばして、理津子さんのベリーショートの髪と細い項を、おそるおそる撫でる。それだけのことに、僕の鼓動は、この世界の全ての音を奪うほどに大きく響く。
 僕はきっと今この時、そしてこれからの時間を、この人の隣に並ぶために生まれてきた。
 そう、信じてみたい。
 これからシェアハウスとして生まれ変わる家屋を前に、僕たちは夜が明けるまで、心臓を音高く鳴らしながら、何時間も未来の話をし続けたのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 4:00。
 由宇の話を聞きながら、彩絢の脳裏にはありありと、とある光景が浮かんでいた。真夜中、シェアハウスの中庭で、もしかしたら見かけることができるかもしれない光景を。
 ヘッドフォンを付けた白い人影が、月を見上げている。男性にしては華奢で、どこか少年のような印象を残すその人の横には、銀髪を短く借り上げた真っすぐな背筋の女性。歳こそ違えど、二人の後姿は、どこか似たもの同士のように見える。
 想像する姿があまりにも自然に思い浮かんで、彩絢は驚く。そして何より、脳内のその光景がどこか尊いもののように思えた。
 彩絢は軽く目を閉じたまま、夢うつつの光景に見とれながら、呟いた。

「シェアハウスのことも、理津子さんとのことも、あたし、何にも知らなかったです。なんか、すごい」
「……そういうわけで理津子さんはシェアハウスを始めて、僕はこの部屋に住んで音楽をやり始めたんだ。白洲プロデューサーが残してくれた縁をたどって、手あたり次第やれそうなことやって。そのうち、いつの間にか、仕事が来るようになって。
 ……何よりも、シェアハウスはくらしの音であふれていて、僕はそのおかげで、まったくアイディアが尽きなくて本当に助かってるよ。今もどんどん曲が生まれてる」
「由宇さん、お仕事はミュージシャンなんですね。部屋も機材だらけだったし」
「うん、一応ね」
「情報が多いです、由宇さんはほんとに」
「そうだね、そうかもね」

 彩絢がもう一杯紅茶を準備しようとするのを、由宇は、もうすぐ寝る時間だからと断った。そうだ、そういえばもう朝が近い。

「もうこんな時間! ……今日はお話、ありがとうございました」
「いえいえ、たまには。それに、僕の方こそ、今日はいきなり怖い思いさせちゃってごめんね」
「いえ、ちゃんと謝ってもらったし、もう大丈夫です。……あ、せっかくだし、これを機に、由宇さんの音楽を聴いてみたいです!」
「ああ、ありがとう。じゃあ、“ユーミ”で検索して。すぐにたどり着けると思うから」
「……え?」
「ほら。これ」

 由宇は、ポケットに突っ込んでいたらしい自分のスマホを引き抜いて、youtubeの画面を示した。そこには、彩絢も長年のファンである、ミュージシャンの名前が記されていた。

「は、“ユーミ”、って、あの有名な“You-me”なのー……!!??!??」

 ロックにテクノポップ、果てはクラシック要素を取り入れた曲まで、ありとあらゆるジャンルの音楽を作り上げる“You-me”。
 様々なアーティストや歌手に楽曲を提供し続けているミュージシャン。その名前を知らない人は日本にほとんどいない。ボーカロイドを使った彼の楽曲の動画サイトには、今や数百万人のフォロワーがいる。音源はさらにいたるところで使われている。テレビでもCMでもインターネットでも、彼の曲を聴かない日はないくらいに。
 年齢、性別すべて不詳。テレビにもネット上にも一度もその姿をさらしたことのないその人物が、――こんなところにいたなんて。
 103号室の住民の情報量に、彩絢は今度こそ完全にパンクし、語彙を失った。

「あの、そのっ! お、おうえんして、ます……!」
「どうも」

 由宇は、にこりと笑って踵を返し、自室へ戻っていく。最後に、思い出したように肩越しに振り返った。

「ああ、新米の大家さんにサービス。最新曲は、205号室の人の百円にアイディアもらって、コインが鳴る音がリズムに入ってるから、そういう風にも楽しんでもらえたら。じゃ、おやすみ」

 103号室の部屋のドアは、パタンと閉じられ、ーーそれきり、何の音もしなくなった。

 しぃん、と静まり返る夜明け前の空気を、新聞配達のバイクのエンジン音が割いていく。遠くで聞こえる始発電車の音。太陽が昇り、温度が上がって僅かに軋むガラス、小さな風の渦巻き。
 夜が明けはじめている。
 そうだ、夜明けにもこんなに音があるんだ、と彩絢は気づく。自分の部屋に戻ったら、すぐにYou-meの音楽と、新曲を聴いてみよう。彼の愛が込もった曲、このシェアハウスが奏でる多彩な音にインスパイアされ続ける、彼の音楽を。
 夜が明けていく。
 Commaの住民たちの中で、朝早くに出勤する人たちが動き出す音。水音と歯磨きのリズム。窓の外からの鳥の声。寝不足のせいもあってか、当たり前の日常が奏でるそれらに、どうしてか今朝は、涙が出そうになる。
 このシェアハウスからは、あまりにも多彩な。

 くらしの、おとがする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』に寄稿されています。文活では生活に寄り添う物語をおとどけしています。作品は全文無料で読めますが、マガジンを購読いただくと作品ごとの「おまけ」が受け取れます。

お読みいただきありがとうございました。
この下には、雪柳あうこがそもそもなぜ小説を書き始めたのかという古い話を少々。それから、リレー小説をたくさんやってきた経験から、リレー小説を書くときに頭の中にあること・気を付けていることなど、執筆ノウハウを少しだけご紹介いたします。
ご興味を持っていただけましたら、文活マガジン本誌を応援していただけますと幸いです(有料部分が読めるようになります!)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここから先は

1,657字
このマガジンを登録いただくと、月にいちど、メールとnoteで文芸誌がとどきます。

noteの小説家たちで、毎月小説を持ち寄ってつくる文芸誌です。生活のなかの一幕を小説にして、おとどけします。▼価格は390円。コーヒー1杯…

よろしければサポートお願いします。これから作る詩集、詩誌などの活動費に充てさせていただきます。