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受け入れる。

ありのままを受け入れてもらいたい、その欲求はワガママなのだろうか。

今日、お店のお菓子売り場でチョコレートを買おうと物色していたら隣に4,5歳位の女の子とお母さんがいて女の子がお菓子を選んでいた。

手にとったのは「ねるねるねるね」

それをお母さんに「これがいい」と女の子が言うと、お母さんは「ホントにそれ食べるの?きっと食べないからやめなさい」と言った。
女の子は棚にねるねるねるねを戻し、別のお菓子を手にとって「これは?」とお母さんに尋ねる。
お母さんは「えー、それ?どうせ食べないでしょ。違うのにしないさい。さっさと決めてよ。」と言っていた。

私は聞いていて何だか苦しくなり、その場から離れた。

さっさと決めたくても選んだものを否定するんじゃん。
お母さんの正解を選ばないとこのやりとり続くんじゃん。
どうして選んだものを「それがいいんだね。それにしよう。」と言ってくれないのだろう。

「ねるねるねるね」は確かに作ることが楽しくて、味としては美味しいのかと言われれば正直美味しいものではない。(※自分調べ)
作ることに満足して、一口食べて「いらない」となりがちだと思う。
実際、私も子供の頃に買ってもらったことがあるが、あれは作ることが楽しい。
粉と水を混ぜて色が変わる、その過程が子供的にはおもしろい経験なのだと思う。
そして子供が食べ残したものを食べる羽目になるのは親だ。
せっかく買ってあげても食べないのなら意味がないんだろう。

お母さんの言わんとすることは察することはできる。
世のお母さん達は忙しいのかもしれない。
お母さん自体にも余裕がないのかもしれない。
そのお母さん自身も子供の頃、親にそう言われてきたのかもしれない。
子供を否定しているつもりはないんだろうと思う。

子供が選んだものをただありのまま受け入れてほしい。
それはワガママなのかな。
そんな風に心がざわめいた。

例えば、結局食べなかったとしても「自分で選ぶ」とゆう経験をさせてあげてほしいと思う。
食べ物自体は無駄になるかもしれないけど、子供が主体性に生きることの経験になるんじゃないだろうか。

この事を母に話してみたら、そのお母さんの気持ちが分かるそうだ。
おそらく世のお母さん達は共感するのかもしれない。

母が私に「ただお菓子を選ぶとゆうやりとりでそこまで深く考えるのっておかしいんじゃない?あんたとは気軽に話せない。」と言われた。

「私は深く考えるのが好きなんだよね。それが私なんだと思ってもらえたら嬉しい。」と母に言った。

少し、、、いや結構傷ついた。
私の事を分かってもらえてないことが悲しかった。
受け入れてもらうって難しい。

当然だけど親子でも違う人間なのだ。
それぞれの価値観があって、人間性があって、経験してきたことも違うし、例え同じ出来事を経験したとしても感じ方や受け取り方が違うんだから。

相手に受け入れてほしいと願うとき、自分が自分を受け入れてないんだと気づいた。
だから私は母の言葉に傷ついた。

自分でもわざわざ深く考えるって面倒くさい性格だなと思っている。

母に言った言葉は私が私に言いたかった言葉だった。

その後母が「そんなに深く考え過ぎてつらくならないの?」と聞いてきた。
私は深く考えるのはつらくはない。
むしろ楽しいし、考える時間がないことのほうがつらい。

どうやら母は私が物事を深く考えることで本来考えなくてもいいことで頭が疲れて、つらい思いをしているんじゃないか、そうだとしたら大事な娘がつらい思いをするのが嫌だったからあのような言葉を言ったそうだ。

あの言葉の裏にそんな思いが隠れているのか。
あの言葉からその思いは全く汲み取れない。
分からない、、、人の感じていることって。

あの女の子のお母さんも実は娘を思っての言葉なのかなぁ。

なんて、また私は深く深く考えだすのである。







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