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弱みの恩恵

弱みをさらすのが苦手だった。

欠けているものがあるのはいけないことだと思っていたし、苦手なものは克服するべきだと思っていた。

それは良い人間(優れていれば)愛されると思っていたし、必要とされて居場所が持てて安心できると思っていたからだ。

だからいつも自分の足りないところを見つけては責めていたし、補おうと躍起になっていた。

でも、いくらでも上には上がいてどんなに自分で自分に目を光らせて見張っていても出来ないことがあった。

そんな緊張状態でいるから、周りはさぞ近寄りがたかっただろう。

実際、出来ない人をみるとなぜ頑張らないんだろうと出来ないじゃなくてやらないだけでしょ?ってイライラしていた。

今思えばそんなオーラが滲み出ていたと思う。

ひとりでも出来なきゃいけないって思ってた。

出来ないなんて言っちゃいけないと思ってた。

頑張れば頑張るほど、苦しみの渦に飲み込まれていて、こんなにやっているのに周りは助けてくれないって、こんなに頑張ってるのに分かってくれないって他者が敵のように感じていた。

ある人から「頑張り過ぎているんじゃない?あなたが頑張れば頑張るほど周りはあなたを助けられない」と言われた。

私が頑張るから、助けられない?

目からウロコとはこのことで。

頑張れば愛されると思っていたのにどうやら逆だったようだ。

それから少しずつ、ほんの少しずつ、慣れないことだからザワザワしつつ、頑張らないをやってみた。

本当は嫌だなと思ってたことも、今までは嫌だなんて言ったら相手を困らせるし、迷惑がかかると思っていて言えなかったけど、「いやだなぁ〜、したくないから助けてもらえない?」と言ってみた。

めっちゃドキドキしながら。

そしたらアッサリ。やってもらえた。

もちろん毎回毎回ではないし、相手には相手の都合もあるだろうから受けてもらえないこともある。

それよりも何よりも言えたこと、言わせてもらえたことで私は安心できたのだ。

あれだけ欲しかった安心感は、私が弱みをさらけ出すことで得られることを知った。

受け止めてくれる周りにも感謝の気持ちが自然と湧き、私が出来なくて苦手だったことが得意な人がいて私がするよりずっとより良いものにしてくれた。

それでいいんだと思った。

何でもかんでも一人でやらなくちゃと思っていた頃とは違って、今はすごく楽に安心して過ごせている。

周りを敵だと思うこともなくなって、信頼できるようになった。

「助けて」は未だに言う時はドキドキするけど、その分誰かの「助けて」も快く引き受けられるようになった。

コロナ禍でどうにもこうにも一人ではやり切れないことが起きて、気づけたこと、得られたものはとても大きい。

この2年の出来事。









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