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カリスマ創業者の息子に生まれて

私の父はいわゆる「カリスマ創業者」です。

20代の頃に「サイドビジネス」として中古車の売買を始めると、これが大当たり。脱サラして中古車の販売会社を作り、数々のアイデアで当時としては国内最大規模の販売会社に成長させました。

そしてまだインターネットが普及する前の時代に世界ではじめて中古車をリモートで取引するサービスを始めました。

そのために作ったのが「オークネット」という会社。会社を作ると瞬く間にお客さんが集まり、念願の株式公開やアメリカ進出まで果たしました。

しかしこれからというときに父は胃がんになり、51歳という若さで亡くなってしまいます。昭和の時代を駆け抜けたロックスターのような人生でした。

そんな父のもとに長男として生まれた私。

父は私に会社を継がせるのは難しいと思っていたようです。「もしあいつに見込みがあるんだったら考えてもいいけど、ダメなら継がせる気はないよ」なんて言っていたそうです。

私のほうも「お父ちゃんが作った会社のアトツギだぞ」なんて、おぼっちゃまみたいなのは勘弁してくれよと思っていました。

そんな私でしたが、35歳でオークネットに入社し、44歳で社長になりました。

「創業者の息子としてオークネットに入るのは大きな意思決定だったんじゃないですか?」と言われることもあります。

だけどそこに「意思決定」はなかったんです。

悩んで疲れてヘトヘトになっていたところを拾ってもらっただけ。自分で主体的に意思決定したわけではありませんでした。

私がオークネットに入るときに思ったのは「こんな自分でも使ってもらえるならありがたい」ということだけでした。

「おんぶに抱っこ」な20代

将来のことなど深く考えずに大学時代を過ごしていた私は、当然ながら就職活動で行き詰まりました。

そこで父の会社の副社長が大手総合商社の関連会社を紹介してくれることになり、なんとか就職することができました。

何年か働くと、今度は父の弟(私の叔父)から「ニュージーランドのビジネススクールに行ってみないか?」と声をかけてもらいました。本当はアメリカがよかったのですが「アメリカに行ったらあいつ遊んじゃうだろうな」と思われていたんじゃないでしょうか。

「アトツギなんて嫌だ」と思っていたのに、けっきょくは父のまわりの人にお世話になってばかりだったのです。

ちなみにMBAを勧めてくれた叔父というのは、父が亡くなったあと2代目としてオークネットの社長になった人でした。次の関係を頭に入れてもらえればと思います。

30歳になるころ、叔父から「そろそろオークネット系に戻ってきたらどうだ」と言われました。私もさすがに若いころのような反抗心はなくなり、少しずつそういうことを意識し始めていたと思います。

そこで、オークネットのグループ会社に入社することになりました。

いきなり執行役員に

私は創業家一族ということで、最初は少し警戒されている感じもありました。それでもみんなわりとフレンドリーに受け入れてくれたと思います。

しかし半年ほど経って状況は大きく変わります。平社員で入社したのに、いきなり執行役員になってしまったのです。

その瞬間、まわりからの接され方がガラっと変わりました。

「創業家か何か知らないけど、何もしなくてもいいところまで上がれるんだ」

そんな冷ややかな視線を感じるようになりました。

なんとか結果を出してまわりに認めてもらいたい。そう思った私は、MBAで学んだことも活かしながら「こうしたほうがいいんじゃないですか?」と積極的に意見を言うようにしました。

だけど完全に実力不足でした。

そりゃそうです。父はカリスマ創業者でも、私は起業したこともなければ経営をやったこともない。ふつうのサラリーマンしかやっていないわけです。

はじめは経営陣も私の意見を聞いてくれたのですが、だんだんと「これをやれ」「なんでこっちをやってないんだ」といら立つ様子も見え始めました。

そうすると現場も「あの人、やっぱり大したことないね」とますます冷めていく……。

月曜の朝10時から責任者が集まる会議があったのですが、その会議がもう嫌で嫌で仕方なくて。日曜の夕方は完全に「サザエさんシンドローム」状態でした。

副社長に助けてもらった

あるとき私は半蔵門あたりの地下鉄のホームを歩いていました。

するとオークネットの副社長にバッタリ会いました。

この副社長というのは、先ほど出てきた就職活動を手伝ってくれた人です。総合商社出身で、兄貴肌の頼れるビジネスマン。2代目社長である叔父の片腕として20年以上会社を支えた人でした。

彼はすごく面倒見がよくて、会社の若手はもちろん、私のことも何かと面倒を見てくれていました。

その副社長がまず言ったのは「おまえ、大丈夫か」という言葉でした。そのとき私は死にそうな顔でフラフラ歩いていたらしいです。

さすがにちょっと大げさに言ってるんじゃないかと思うのですが、とにかく「これはやばいぞ」と思ったそうです。

副社長は慌てて叔父に連絡してくれて、週末に叔父と話をしました。たしか用賀の喫茶店だったと思います。叔父からは「そこまで苦しんでいたとは思わなかった」と言われました。

そして叔父の紹介で翌年の1月からオークネットに入社することになったのです。大学卒業からここまではほんとうに叔父と副社長のサポートありきでした。

ようするに、自分の力では大したこともできないどら息子だったわけです。

「俺、何もやってないじゃん」

最初は経営企画系の部署に入りました。そこで1年くらい働いたあと、メイン事業である自動車の部署にいきました。

自動車ではまず3人のチームのリーダーになりました。きちんと話をして進めていくと意外とうまく回ったので少し安心しました。

その後「小売支援」という比較的新しい企画を進めるチームで4年ほど働きました。新しいことを考えるのは意外と自分に合っていたのか、評価されることも増え、私は少しずつ自信を取り戻していきました。

しかし次の1年で事件が起きます。

またも執行役員になってしまったのです。さらにその数ヶ月後には取締役にもなってしまいました。

それは能力や実力だけで決まったことではありませんでした。まわりも「そういうことかい」となりますよね。

ここで偉ぶったり出しゃばったりすれば、また前と同じことになるぞ……。

そう思った私は、知らず知らずのうちに「いやぁ、こんな私が役員になってしまって申し訳ないです」というスタンスになっていきました。

これがよくなかった。

私は役員になったことで、祖業である中古車のネットオークションの事業を担当し、社内で最も古くから働いている人たちをマネジメントしなければいけなくなりました。昔ながらの職人気質のような人だったり、私の親くらいの年齢の人もいました。

「この業界ではこうやるのが常識ですから」と言われたら「そうなんですね。ではお任せします」としか返せなかった。

おかげであまり浮くことも、嫌われることはありませんでした。

その代わりにやってきたのは、途方もない無力感。

「なにこれ。俺、何もやってないよね」

前の会社の経験を「挫折」と呼ぶのなら、今回は「挫折」すらしていない。ただただ無力感だけが残り、モヤモヤとした気持ちで自動車を離れることになりました。

いきなり毎日がジェットコースターに

反省が残る中、今度は新規事業の部署に行くことになりました。

私が担当したのは当時立ち上げたばかりの「デジタルプロダクツ」という事業。中古のスマートフォンを国内だけでなく海外にも流通させる事業です。

デジタルプロダクツに放り込まれたのは、私にとって大きなターニングポイントになっていきます。

いちばん違ったのは緊張感です。

自動車の事業はビジネスモデルが強いので長年にわたって安定していました。その分、新しいことをやるというよりも今までやってきたことを守る文化が強かったです。

しかしデジタルプロダクツはまったく違いました。

まだまだ立ち上げ期なので、毎日いろんな事件が起きてまるでジェットコースターのよう。メンバーもみんな「新しいオークネットをつくるんだ」と意気込んでいました。ほぼ違う会社に行ったような感覚でした。

「お任せ」×「実行型」のマネジメント

デジタルプロダクツは当時の副社長が担当していました。

といっても先ほど出てきた副社長とはべつの人。彼が退任したあと、後任として専務から昇進した人でした。

彼も会社は違いますが前の副社長と同じく総合商社出身。しかし2人のタイプはまったく違います。

前の副社長は声も体も大きくて、面倒見のいい人情タイプ。いっぽうで新しい副社長は切れ者でシュッとしていて、まさに商社マンという感じです。

彼のマネジメントスタイルは「お任せ」です。

「こういうことをやりたいんですけど」と相談すると、たいてい「いいんじゃない、やってみようよ」と言ってくれます。

だけど一度決めたことが進んでいないと、一言「それじゃダメだよね」と言われる。声を荒げて怒るタイプではありませんが、仕事にはとても厳しいのです。彼の前ではみんな背筋がピシッとなっていました。

それから「実行型」の人でもあります。

彼のマネジメントをひとことで言うなら「とにかくボール転がさないと何も起きないじゃん」という言葉がぴったりです。

いったんボールを転がしてみて「思ったよりこっちに行ったね」となったら、次はどう転がすかまた考える。「こっちがいいと思います」と言うと、「そうかもね、じゃやってみようよ」と背中を押してくれて、どんどん物事が進んでいく。そういうマネジメントがすごく上手な人でした。

本当の意味で「会社のトップ」をやれた

副社長はあえて私にバカバカと役職を付けていきました。

たとえば海外の企業と合弁会社をつくると、必ず私に代表の役割を与えるんです。けっきょくそのときは会社の役員を7、8個くらい掛け持ちしていました。

自動車のときは執行役員とは言いながら、どこか「一社員」という立ち位置だったと思います。私以外にも何人か役員がいたので、よくも悪くもそこまで責任は重くありませんでした。

しかし副社長は違いました。

「あなたがちゃんと見なさいよ」と言って、ほんとうの意味で責任ある立場にしてくれたのです。

特に海外企業との交渉の場に代表として出ていくと「あなたがいまここで判断するんですよね?」と迫られます。このヒリヒリした感じはそれまでとまったく違いました。

自分で決めるしかないので、私はかなりの部分を自己責任で意思決定するようになりました。

それであとから「こういうことを決めてきちゃいました」と報告するんです。すると副社長もたいてい「ああ、いいんじゃないの」と言ってくれました。

「立場が人を育てる」という言葉があります。

だけどやっぱり肩書きが変わるだけではダメだと思うのです。

副社長は形だけでなくほんとうの意味で「会社のトップ」を経験させてくれました。彼のバックアップがありつつ、自分の頭で考え、自分の責任で意思決定するようになった。そのおかげでどんどんレベルが上がっていくのを感じました。

最後の1年でやっと花が開いた

そのあとまた自動車に戻ることになりました。

いわゆる「乱世の治め方」と「平時の治め方」があるとしたら、デジタルプロダクツはもうド乱世でした。

いっぽうで自動車のほうは完全に平穏な時代。しかしゆるやかな下り坂に入っていたので、平穏な中でもちゃんと刺激を与えて、何かアクションをしなければいけない状況でした。

「乱世」の後で自動車に戻ると、以前とは景色がまったく違いました。課題がよく見え、何をどうすればいいか客観的に答えを出せるようになったのです。

まずやったのは100人以上の社員へのヒアリングでした。

ひとりひとりに事業部の課題を徹底的に聞いて、ここ30年間で凝り固まってしまった「闇みたいなもの」をぜんぶ表に出すことにしたのです。

上がってきた課題はすべて一覧表に並べました。最初は100くらいかなと思っていましたが、けっきょく300くらいになりました。それを整理して、できるものから1個ずつ潰していったのです。これが最初の半年でやったことでした。

ある程度の成果は出ましたが、課題をひとつひとつ潰しているだけでは成長にはつながりません。

そこで次の半年はサービスの向上に取り組むことにしました。

しかしどうしてもいまの業務をきちんとこなす文化が強かったので、新しいことを考えてもらおうにもなかなかうまくいきません。

そこでテーマを決めて、通常業務とは完全に切り離したプロジェクトチームをつくっていきました。テーマごとに5、6人をとっ捕まえてきて、考えさせる。そして2週間に1回ぐらい報告会をやってPDCAを回していきました。

副社長から学んだ「転がしてから考えりゃいいじゃん」というスタイルでいえば、それまではボールが一切ありませんでした。

だから「とりあえず転がしてみよう」ということで、いろいろ仕掛けていったのです。

以前のように経験の長い社員に遠慮しすぎる気持ちはどこかに行ってしまいました。

これが2019年のことです。この1年は一番わかりやすく成果が出たと思います。

それが決め手になったのかもしれません。年末に叔父から部屋に呼ばれて「来年からあなたに社長を任せることにしたよ」と言われました。

「俺は2代目なんかじゃない」

叔父は創業者からいきなり会社を引き継ぐことになり、ものすごく苦しんだ人でした。

カリスマ創業者が突然いなくなって、いきなり「お前が社長だ」と言われた叔父。彼を近くで見ていると「ずっと舞台裏でスターを支える役割だったのに、急にきらびやかな舞台に上げられてしまった人なんだな」と思ったりします。

最初はついてこなかった社員もたくさんいたそうです。しかし叔父は必死に考え抜き、反対勢力とも戦いながら、会社を成長させていきます。いくつもの新しい事業を作り、東証一部(現プライム)上場も達成しました。

叔父と私には、根本のところで共通点があります。

経営者というのは自分がやりたいことを信じて突っ走っていく人が大半です。

しかし私たちはそういう人から「引き継いでしまった人」なのです。

叔父はその苦しみを痛いほど味わってきたからこそ、私にはなるべく同じ思いをさせないように考え抜いた。そしてこんな私にたくさんの成長の機会を与えてくれたのです。

就職のあてもなくプラプラしていた私に自分の右腕である副社長を紹介してくれたのも叔父。MBAを勧めてくれたのも叔父。オークネットに拾われたのも、若いうちに自動車の部署に入ったのも、デジタルプロダクツに放り込まれたのも、すべて彼が判断したことでした。

これは最近知ったことなのですが、叔父は社長になったばかりの頃「俺は2代目じゃなくて1.5代目なんだ」なんて言っていたそうです。

おそらく叔父は「次世代に会社を託すこと」を一番に考える経営者なのです。

そのおかげか、私が社長になってからも業績は伸び続けています。昨年は過去最高益を達成。父の時代は50億円だった売上も360億円を超えました。

この勢いを決して絶やすことなく、もっともっと加速させていく。そしてまた次世代にバトンをつないでいく。

それがカリスマ創業者のもとに生まれてしまった私の使命なのです。

父の墓を前に、思うこと

神奈川のとある住宅地に父の墓があります。

3区画くらいある広い墓地を進んでいくと、灰色の墓石の中にひときわ大きなエンジ色の墓石がみえてきます。少しはずかしいのですが、それがうちの父の墓です。

お墓の大きさは、大人の男性が手を伸ばしてやっと届くくらい。その巨大なお墓の横にふつうのお墓くらいのサイズの石でできた入れ物があって「御名刺受」と書いてあります。

その入れ物はポストのようになっていて、お参りに来た人はみんなそこに名刺を入れていきます。たまに開けにいくと「ああ、この人また来てくれている」とわかるのです。

会社の先輩社員なんかは、営業のときに後輩をつれてきたりします。それで「これが創業者の墓なんだよ」「この人、すごかったんだぜ」なんて言うのです。

亡くなってもう30年も経つのに、いまだに父の「信者」みたいな人がたくさんいる。ずっと見守ってくれた叔父、私を助けてくれた2人の副社長、そして今回登場しなかった数え切れないほどの人たちが、いまも父を慕ってくれています。

父は亡くなる直前、最後の力を振り絞って1冊の本を残しました。そこにこんな言葉が出てきます。

「尊縁(ソンエン)」って聞き慣れない言葉ですよね。偶然出会った人といい関係をつくろうと努力することで、ただの「出会い」が「尊い縁」になるという考え方です。

父の「尊縁」の精神のおかげで、いまも父を慕ってくれる人がいる。そしてそういう人たちのおかげでいまのオークネット、いまの私があるのです。

ビジネスではもちろんアイデアや行動力が大切です。だけど会社を何十年、何百年と続けていくには、やっぱり人同士の信頼関係があってこそなのです。

私が社長に就任したとき、社員のみんなに「仲間との尊縁を育んでください」とメッセージを送りました。社員のみんなにいちばん伝えたいことを考えたら、自然に「尊縁」が出てきたのです。

社員のみんなは父が残した本を読みこんでいるので、尊縁と言うと「ああ、あれのことね」とすぐにわかってくれます。これも父や叔父が「人との信頼関係を大切にする経営」をやってきたおかげなのかもしれません。

私は父のカリスマ性を受け継いだとは思っていません。

だけど「尊縁」の精神で、いつもサポートしてくれる社員たちや外部の関係者のみなさんと接していくことはできます。

それがまわりの人にお世話になってばかりだった私なりの、経営のあり方なのかもしれない。最近はそんなふうに考えています。

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