見出し画像

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』

あなたはイタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』の、誰が書いたのかもよくわからない書評を読み始める。カルヴィーノの名を知っているし、この人の小説をいくつか知っている、もちろん『冬の夜・・・』もずっと以前に読んだことのあるあなたは、おぼろげな記憶に訴えかけてくるこの如何にもな始まり方をする文章に、少し疲れさえ覚えて、このまま読み続けるかどうかを思案する。

なぜなら書評なのだとしたら、これからストーリーの理解の答合わせをして、それを手放しに絶賛する様子を眺めさせられるという、友達のピアノの発表会のようになんとも居心地の悪い時間を過ごさなくてはならないからだ。昔読んだ本の記憶という誘惑に魔が差してこのリンクを開いてしまったあなたにそんな時間があるのかどうか。やらなければならないことは他にいくらでもあるのは火を見るより明らかなのだ。

しかしあなたはついつい読み進めてしまう。なぜなら、この書評が『冬の夜ひとりの旅人が』とは全くなんの関係もない文章であることがわかったからである。確認されるストーリーからして似ても似つかぬ。いくらうろ覚えだとはいえ、全く違うということくらいはあなたにも断言できる。

18世紀も終わりに差し掛かったある日、郊外に住むもう引退した老人チンブリア氏が、たまには旧友の顔でも見るかと思い立って久しぶりに街へやってくる。豪奢な宮殿の前で馬車を降りると、たくさんの人が群れをなして美術館へと入っていくのが見えたので、老人もそれについていくことにする。中へ入ると広いギャラリーで「自由のサロン」という展覧会が開かれている。そこにはたくさんの建築の図面が所狭しと並べられている。チンブリア氏は近くにいたこれまた初老の男に話しかける。彼は小作人風の粗末な身なりをしていたが、展覧会のカタログを持っていた。
「ひょっとして、ドゥ・クーという人の作品が出ていませんかね」とチンブリア氏。
「さあ、このカタログに載っているのじゃありませんか」と小作人。「いや、要覧に名前はないですがね。」
「ちょっと貸していただけますかな。・・・いや、おかしいな。」
「そんなに有名な御仁なので?」
「彼ほどに実直な人間はいないよ。ここに出品している芸術家はほとんどがまやかしものだ。」
「そんなものですかね。」
「ドゥ・クーは本物だ。彼の作品が一つもないなんでこれほどおかしいことはない。彼こそが真に市民の味方たる芸術家なのに。」
「そこまで言われるならぜひ一つでも見たいものですがね。ここにずっといてもつまらないと思っていたところだったのでね。」
「そうするのが一番ですよ。彼の住所を渡しましょう。そこへ行けばいつでも本人に会って絵を見せてもらえるはずだから。チンブリアの紹介といってね。」
「恩に着ます旦那。」
そういうと小作人は住所の書いた紙切れを持って行ってしまった。チンブリア氏は一つ良いことを達成した気になって、次の旧友のいる街へと向かうことにした。
馬車で小一時間だろうから、その間に名前を考えておかなければならない。彫刻家のツェレーニンなんて異国風でいかにもお誂え向きではないか。

あなたはカルヴィーノの素晴らしい小説がこうして全く異なる想像力で無茶苦茶に解説される事に怒りを覚え、抗議したいと思う。これは全く書評でもなんでもない、こんな文章を読んだのは本当に時間の無駄だった。さらに肝心の小説への評価ときたら、全くこき下ろすばかりなのだから。

これはカルヴィーノの小説という体裁をとった全くの駄文に過ぎない、似ても似つかない文学界の消しくずのような存在だ。技巧をひけらかし、その後ろに核となる信念が何もないことをひたすら隠しているが、結果として読者を飽きさせることにしか役立っていない。読む必要が全くない文章と言い切れるような代物がこうして存在すらしている事に、驚きを禁じ得ない。

そうしてあなたは、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を再読する必要にかられることとなる。この出鱈目な書評に汚されそうになった本の記憶をまた新鮮ななものとして取り返すために。ちくま文庫の、あるいは白水uブックスの新装版を、本棚に探し、あるいは近くの書店に求めにいって、とにかく自分の目で物語を体験し直さなければならないのだ。

しかしながらあなたは、そうして手にとった『冬の夜ひとりの旅人が』が乱丁本であることに未だ気が付いていないようだ。



この記事が参加している募集

推薦図書

お金も欲しいですがコメントも欲しいです。