大好きだったはずのピアノをやめたあの日の自分に贈りたい、名作『モモ』の言葉たち
「今日の演奏、とってもよかったわよ。じゃあまた来週ね。」
ピアノを習いはじめたのは小学校1年生のころだった。先に習いはじめた姉のマネをして「わたしもひく」と言い出し、気づけば高3まで続けていた。
ピアノを弾くのは大好きだった。
当時から周りの空気を読んで「いい子ちゃん」を演じることが得意だったわたしは、自分の感情を吐き出すことが苦手だった。その溜め込んだ気持ちを唯一ぶつけられるのが、ピアノだった。
表面上はどんなに平静を装っていても、ピアノには嘘をつけなくて、
「あつこちゃん、今日は少し怒っているでしょう?」
「何か悲しいことがあったの?話してごらんなさい。」
と、演奏後によく先生から言われていた。なんでもお見通しだった。
誰に言われなくとも、暇さえあれば弾いていた。そんな大好きだったピアノを、好きだと思いきれなくなったのは、いつからだっただろう。
発表会やコンクールで演奏したり、合唱コンクールで伴奏をする機会が次第に増えていった。表舞台に出れば出るほど、自分よりうまい人に出会う。弾けば弾くほど、自分の下手さがわかる。
今思えば、習いつづけた12年間、私は一度も自分の演奏に満足できたことがなかった。
周りからどんなに「今日の演奏よかったね!」と言われても、審査員から好評を得ても素直に受け止められなくて、「あそこはうまく弾けなかった」とか、「あの人はもっと上手だった」とか、そんな想いばかりがめぐっていた。
当時から負けず嫌いで、完璧主義だったのだと思う。
「もっと弾けるようになりたい」という想いの先に、果てしない道がつづいているように思えた。
そうして大学生になった私は、ぱったりとピアノを弾くのをやめてしまった。
* * *
そんな昔の私に贈りたい言葉に出会った。ドイツの児童文学作家 ミシャル・エンデ氏の名作『モモ』に出てくる、道路掃除夫ベッポの言葉だ。(以下『モモ』より一部引用)
「なあ、モモ、」
「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれていない。」
「これがだいじなんだ。」
* * *
読み終えたら、高1の合唱コンクールのあと、浮かない顔をしていた私に担任の先生がかけてくれた言葉を思い出した。
「大人になって、もう少し肩の力を抜けるようになったらいいね。そしたらきっと、楽しめるようになるよ。」
ピアノを弾かなくなってから、10年が経った。
今ならまた、ピアノを好きになれるだろうか。