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韓国映画『チェイサー』私的な感想・解説


バイオレンスな映画が無性に観たいときってありませんか?

あっ、ないですか……。

私自身はそういう感覚でこの『チェイサー』の2回目の鑑賞を行ったのですが、1回目では気付かなかった本作の構造、及び韓国映画の本質に思わず気付いてしまいました。

韓国映画のどのような要素が名作足り得るのかということです。



『チェイサー』感想と総評


実は『チェイサー』を観るのはこれが2回目でした。

再度鑑賞した感想としてはやはり良く出来た映画だと思いますし、最初見た時の評価はもう少し高かったのですが、

後に詳しく説明する「怒りの矛先」及び作品の主題について勘違いをしていたのだと気付いたため評価が少し下がりました。


というのは、『チェイサー』のみならず韓国映画で好まれるバイオレンス表現に明確な意図があったのだということに気が付いてしまったからです。

そのため、純粋な恐怖体験をすることが出来なくなったので評価が下がってしまいました。


しかし、それはさておきwikipediaを見てみると、監督・脚本を務めたナ・ホンジンという人はこれが長編映画デビューだったようです、凄いですね。

韓国映画は監督自身が脚本をキチンと手がけているのも作家性が高い作品が生まれる一つの要因なのかなと考えます。

他に『哀しき獣』や『哭声/コクソン』を撮っているようですが、両作品とも観ているのにも関わらず、恥ずかしながら自分の中でそれらが繋がっていませんでした。

この中ではやっぱり『チェイサー』が一番面白いし、監督の個性も一番出ているような気がします。



結構早く捕まる犯人と本作の真の主題


『チェイサー』を見た人の多くが思うことだと考えるのですが、この映画は結構早くに犯人が一回捕まえられます。

この犯人というのはシリアルキラーの男で、元刑事の主人公が自分の経営するヘルス店の嬢がその男を相手にした後不自然に失踪することを不審に思い、その男を追跡(チェイス)するのが本作の話です。

だからタイトルが『チェイサー』なのかなと思いきや、一回犯人は直ぐに主人公に捕まってしまい警察の取り調べを受けることになります。


鑑賞した人の多くはこの時点で「あれ?もう追走(チェイス)は終わりなのか」と思ったはずです。

しかし、本番はここから。


なんと警察は明らかに犯人が怪しそうな奴だと分かっているのにも関わらず法的に証拠不十分だという理由で釈放してしまいます。

ここが大きな転換点です。

釈放された犯人は殺し損ねたヘルス嬢が逃げたことに怒りその嬢を「チェイス」し、主人公は釈放された犯人とヘルス嬢を見つけるために「チェイス」し、嘘の供述に騙された警察はありもしない証拠を「チェイス」します。

この3重の「チェイス」狂想曲こそが本作のタイトルとなっています。


だから最初の主人公が犯人を追いかけるシーンは作品に引き込むための組み立て方というかそこまで重要な部分ではなく、あっさりと犯人が捕まってしまったのです。

それで、この転換点で話が少し別の方向にコロッと展開してしまった感じを何となく受ける人が多かったのではないかと思います。

私も最初見た時はそのような印象を受けました。


虎の威を借りますが、漫画家の藤本タツキ先生が確かジャンププラスのインタビュー記事で好きな?映画にこの『チェイサー』を挙げておられて、「自分の作品も次々と変わる先の読めない展開にしたい」という風なことをおっしゃっていたのがこの映画については印象的です。

まあ、奇才である藤本タツキ先生が他のシーンに何を思われたのかということは私如きには理解できないのですが、ここのシーンの転換について言及されておられました。

そういう風に、この転換点とそれ以降3重の「チェイス」狂想曲がそういう話が次々と展開する印象を観客に与えているのだと思います。


しかし、本当にそうなんでしょうか?

本当に、そういうトリッキーでスピーディーな展開を演出することで「残虐な犯人vs正義感に突き動かされる主人公」というエンターテイメントを描きたかったのでしょうか?


それで私が注目したいのは3つ目の「チェイス」、

つまり犯人に騙された警察が形式的な方法に囚われてしまうために調査が後手に回ってしまい犯人を逃がしてしまうというものを取り上げたいです。

もちろん、映画はこの転換点以降も「犯人vs主人公」という視点から話が続けられていくのでそれが主軸であるのは間違いないのですが、ここでわざわざ「警察」という第三要素を入れて話に絡ませたというのには意味があると考えています。


なぜならば、主人公には「元刑事」という設定があります。

この設定は意味のないものではありません。現に、この設定があるからこそ警察との絡みが出てくるのです。

これがこの作品、いや韓国映画全体に隠された主題になっているのだと気付きました。



韓国映画のバイオレンス表現と怒りの矛先


「韓国映画」と一口に言っても様々な映画があるので一概にそうだとは言えないのですが、全体の傾向として作家性の高い設定や脚本とバイオレンス表現が特徴であると私は考えています。


厳密に述べると、作家性の高い作品を生み出そうとした際にそのカタルシスを最大限に表現するためにそれと親和性の高いバイオレンス表現が好んで使われるということです。

『オールドボーイ』、『悪い男』、『アジョシ』、『母なる証明』、『殺人の追憶』……挙げだしたらキリがないほど数々の名作があります。記憶に新しいものでは『パラサイト半地下の家族』のラスト付近のシーンもそうだと言ってもいいと思います。

バイオレンス表現によって話が始まるか、バイオレンス表現によって話が終わります。またはその両方です。


これらについて、率直に言うと「常に何かに怒っている」という印象を全体的に受けます。

「アイツのせい」、「組織のせい」、「社会のせい」……

『パラサイト半地下の家族』なんかは格差社会を描いていて、それは素晴らしい描写だったのですが、見方によれば「社会のせい」にしているとも言えます。

「自分のせいだ」と考えて前向きに行動を起こしていく話や人物が中々いないのです。『母なる証明』なんかはまさにそうです。

「復讐」三部作ですよ?

復讐の前提としては「相手が悪い/そして自分は納得しない」があるのです。


韓国の「恨(ハン)」文化についてここであれこれ述べるつもりはありませんが、そういう「何かに対する怒り」というものが韓国映画のバイオレンス表現の根底にあるのは間違いないでしょう。

(※ちなみに長くK-POPを聞いていたので分かるのですが、「恨(ハン)」文化は音楽にも表れていて、曲ごとの印象的なフレーズが何回も何回も繰り返されるのが特徴です。)


それで、それが『チェイサー』の何と関係しているのかと言うと、

実は『チェイサー』に一貫していたのは「犯人に対する怒り」というよりも「警察に対する怒り」だったのではないかと気付いたのです。


むしろ「警察への怒り」を表現するために残虐非道な犯人が用意されたようにすら思えてきます。そしてその怒りは、次々に展開される話とは対照的にずっと一貫して裏にあったのだろうと考えます。

主人公は「警察」に何らかの不満・怒りがあったので(理由を忘れましたが)、「元刑事」なのです。

ちなみに犯人は犯人で「社会」や「女」に怒っているので犯行を起こしています。そしてこれは韓国で実際にあった事件をモデルにしているらしいです。


そしてそのような「犯人vs主人公」という構図は「警察」という観点から再分析してみると、

「警察の目をすり抜ける猟奇的な完全悪」vs「警察という組織を抜けた元刑事」という構図

であり、そのような対立構図が成立すること自体が警察への呆れ、ひいては無力さに対する怒りの表現に他なりません。


なぜ、幼い子供がいるヘルス嬢が犯人に何回も頭を殴られて殺されなければいけなかったのでしょうか。

そして、なぜ主人公や警察はそれを防ぐことが出来なかったのでしょうか。

なぜ、主人公が犯人を殺すことを警察に引き止められなければならなかったのでしょうか。

もし、「主人公の勝利=犯人の成敗」を表現したかったのであればヘルス嬢は助けられるべきですし、警察は主人公に協力すべきですし、犯人は主人公に殴り殺されるべきでした。


例えば『アジョシ』とかはバイオレンス表現で悪を成敗しています。しかし『チェイサー』はそういう単純な結末になっていないのです

(※だから、私の中で『アジョシ』の評価は他の韓国映画より低い)

そうしなかったのは、実はこの作品が「残虐非道な犯人に対してどうすることも出来ない無力な警察・法」を表現したかったからであり、

主人公の行動は「私刑による罰しか残されていないがそれは大抵空しい結果になる」という結論を主張したかったからなのだと私は考えます。


何と言いますか、作家性の高い韓国映画の名作はバイオレンス表現によって「昇華・発散することが出来ないルサンチマン」が表現されていることが多い気がします。

その怒りの矛先は自分ではどうしようも出来ないほど大きなものに向けられるように作られています。それがルサンチマンを掻き立てるのです。

韓国映画の一見不条理でナンセンスなバイオレンス表現には、キチンと意味と意図が込められているとつくづく思いました。


だからこそ、それに気付いてしまって『チェイサー』の評価が下がってしまったのです。

だって、その時に私が観たかったのは本当に理不尽でナンセンスなバイオレンス表現だったから……『ファニーゲーム』でも観ておけば良かったですかね。

ただ、あれはあれで何も面白くない上に「意図がない」という意図があります。


うーん、私があまり好きではないタランティーノの暴力シーンだけ観とけばよかったですか?

バイオレンス表現というのは何を最後に演出したいのかということを考えないと全く印象が変わってしまうので難しいなぁと思った次第です。



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