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二階の塾

その塾は本屋の二階にあった。
小学校にほど近く、文具が売り上げの多くを占めるような本屋だったと思う。
店のわきから裏手に回り、外階段を上ると塾がある。八畳ほどの部屋に大きなテーブルがあり、八人ほどが座れるようになっていた。
一階の本屋にはいつも不愛想なおじさんがいて、二階の塾はその奥さんがやっていた。数学と英語を小学五年生、六年生と中学生に教えていた。
一学年一クラスのみ。当時、街にはフランチャイズの塾などはなかったから、それなりに人気があった。
私だけ本屋の近くの小学校とは別の小学校に通っていて、塾には知り合いは誰もいなかった。塾の時間の五分前には階段を上がって部屋に入り、決められた席に座った。他の子たちはみな仲がよさそうだったが、私だけいつも誰とも会話をせず黙々と授業を受けていた。
塾は楽しくはなかったが、面白かった。
先生は教職も持っておらず、ここで塾を始める前は塾講師の経験もなかったらしいが、授業はわかりやすかった。最初にポイントだけを説明し、その後はひたすら問題を解かせる。できる子にはどんどん難しい問題を与えてくれるので、やりがいがあった。いつの間にか学校でも安定して高い成績をキープできるようになり、希望していた高校に無事入ることができた。

受験も卒業式も終わり、春休みになってから母親と二人で先生にあいさつに行った。本屋の店先で先生に会いに来た旨を告げると、奥から先生が出てきた。
「合格祝いにはいつも本をプレゼントすることにしているの。何か欲しい本はない? 店になければ取り寄せるから」
先生にそう聞かれて、私は最近本屋でよく見かけて気になっていた本の題名を口にした。
「本当は一人一冊なんだけど、特別ね」
そう前置きをしつつ、先生は平積みになっていた赤と緑のハードカバーを手に取り、二冊とも袋に入れてくれた。横で本屋のおじさんが珍しくにこにこしていたのを覚えている。

ちょっとした取材があって、久しぶりに生まれ育った街に行くことになった。
地方のターミナル駅からローカル線に乗って終点で降りる。用事を終えた後、ふと本屋や塾はどうなっているだろうかと気になった。少し遠回りして目抜き通りまで出てみる。私のおぼろげな記憶にある街とはすっかり変わっていた。そしてそこに本屋はもうなかった。本屋があった場所にはデイサービスの店舗ができていた。場所を間違えているのかもと思ったが、本屋の隣にあった電気店はかろうじて残っていたので、本屋も塾もつぶれたのだろう。
本屋からデイサービスに衣替えしたのかもと思い、店の中をさりげなく覗いてみたが、そこには見知った顔の人はいなかった。
あれからもう30年も経っているのだ。本屋や塾が残っているほうが不思議だ。先生はいくつになっているのだろう。先生の淡々とした授業やミシミシする鉄の階段を懐かしく思い出した。

赤と緑の本はまだ私の本棚の隅に並んでいる。帰ったら久しぶりに読み返してみようと思った。

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